- ◆観音寺市出作町1197 近藤昌春は近藤雅典 容疑者を
16 :少年法により名無し[]:2019/01/20(日) 19:48:59.97 ID:k69EgbOb0 - やはり慰安婦(朝鮮人売春婦)の孫だったか
http://tetsu.cool.coocan.jp/503.html 香川県 観音寺市。 「(朝鮮人強制連行などに関する)『真相調査団』による第五回現地調査(1991年8月)でのことである。 参加住民の一人(観音寺市)が突然、次のようなことを語り出したのである。 『西側の沿って軍川(飛行場の排水溝のことを当時、地元民はこう呼んだ)が掘られたが、 そのすぐ近くに慰安所がありましたな。長さ100メートルはあったですわ。 ピー屋、ピー屋って我々はいっていましたって。わしは行ったことなかった……。 慰安所内は4畳に区切られていましたな。何のためにって……。朝鮮人は単身者が多かったんでですな。 もう夕方になると、襲われたらいかんいうこって、 婦女子は彼らの住んでいるあたりには近寄らんようにしていたがな。そんなことで慰安所をつくったんやろ。 慰安所の女性の中には朝鮮人もおったんではなかったやろうか。朝鮮人も通っていましたな』」(208〜209ページ) 「彼(金奉植)は1942年12月父母らと香川県観音寺市に渡ってきたとされる。 『慰安所のことはよく知っていますよ。』。 奉植さんは1925年朝鮮慶尚北道義城郡で生まれたという。観音寺市入りしたのは17歳のときだったことになる。 『女性すべて同胞でした。ウーン、20人から30人の間位ではなかったかな。年齢ですか。みんな若かったですよ。 20代の人たち。2、3棟はあったんじゃないですか。彼女らは日本に住んでいた同胞女性ではなかったですよ』」 「金成満さん(観音寺市居住・1939年生)。在日二世。1946年、つまり戦後に観音寺に一家で来たという。 実は成満さんのお父さんが慰安所の建物を購入したのである。観音寺市入りをした年のことだったと思うという」 「もう一人、李鐘洛さん(観音寺市居住・1923年頃の生まれ)にもお会いした。 1943年11月3日、観音寺市に来ている。すぐ飛行場作りに動員されたといわれる。 慰安所は確かにあったという。鄭(チョン)という同胞の方が朝鮮人女性を連れてきたのだといわれる。 人数はよくはわからないが、10人以上はいた。日本人の大尉ら将校用には朝鮮人のベッピンさんが供せられたのだとも』」(212〜214ページ)
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