- 【雑食】ベジタリアンにもの申す【菜食】2
695 :大地の恵みの名無しさん[]:2013/01/09(水) 17:10:33.74 ID:Ca59Obe4 - ベジタリアンに反対な人も賛成な人も、たぶん頭から忘れている事があると思う。
それは、いかようにして原始社会から今の食料生産体制に築かれたかと言うこと。 宗教的にも菜食を始めたインドをよく参考にあげるけど、あの地域が南の肥沃な大地にあって 動物を食べなくても生きていけるだけの食料があって、その菜食生活が行なえたということ。 同じ仏教のチベットは肉を食べても良い事になっている。何故か、そうしないと自給自足が成り立たなかったから キリスト教圏の欧州は、夏は野菜を採集できても冬はできないから、人間には食べれない草を豚などに食わせて冬場に必要な分を屠畜した。
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- 【雑食】ベジタリアンにもの申す【菜食】2
696 :大地の恵みの名無しさん[]:2013/01/09(水) 17:33:37.73 ID:Ca59Obe4 - その他、各地域の料理とその内容を確かめれば、肉を使う料理が発達するのは主に野菜だけでは暮らせない地域だ
孤島では魚が主に時には人まで食べた、北や乾燥地帯では野菜が育たないから牧畜や畜産は飢餓から逃れる為の当然の手段になった。 日本は菜食社会だったような事を言うけど魚を主に食べる社会だった。 生類哀れみの令を引き合いに出す人は、当時そのせいで飢餓で死んだ人の事はまったく気にとめない。 よく偉人の言葉を盾にするけど、偉人だからなんなのでしょうか、その「偉人」の専門分野 については技術や哲学に発展を則した事を言ったのでしょうがだからといって、その人が言った事は全部、正解になるのですか? ただ頭で考える事無しにその「言葉」を信じた後は思考停止なのですか? その「偉人」達や芸能人は、どういう生活環境で過ごしていて、その発言ができるのかという事を想像した事がありますか? その「偉人」達は飢えて死ぬような心配はない生活と環境の危険から脱した状況の上からでた余裕がある人達なんですよ。 全員の経歴と生まれ育った環境がそうだと言わないばかりに当時の人間からしては十分にそうすることができる環境で生活しているのです。
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697 :大地の恵みの名無しさん[]:2013/01/09(水) 18:01:26.17 ID:Ca59Obe4 - 今の社会は飽食で満ちあふれてます。特にいわゆる先進諸国と軒並み評される国はそうでしょう。
飽食に満ちあふれていて、その上の暮らしていればその生活が今までさもあったように当たり前と思うのが普通だと思います。 例えば電車に乗っていてあなたは、その電車がどういう技術でどういう原理でどういう仕組みで動くのか理解して乗ってますか? このインターネットや2chがどういう原理と技術で成り立っているか根幹から理解して使ってますか? ただの現象として使っているんじゃないですか?動くから動いているし使えるから使っている。それだけではないのですか? それなのに、ある一分野から、どのような食生活をおくっているか知れと言われるのは心外な気持ちになったりするものではないでしょうか? それが悪いとはいいませんが、まったくそのことを知らない人が急にその分野に関して自分の「正義」を主張されるのは 「普通」の生活を送っている人間にとって異常で異端で協調性がない人のように感じられるのだと思います。 動物愛護と動物の権利と功利主義の側面としてのベジタリアンは自分の思想故に大半の人間がラディカリスム(急進主義)とヒロイズム(英雄主義)を 伴わずには実行出来ないのです。様々なヴィーガンの人の言動やブログを見ると、そうなることが人の心の動きとして正常なのかもしれません
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- 【雑食】ベジタリアンにもの申す【菜食】2
698 :大地の恵みの名無しさん[]:2013/01/09(水) 19:03:08.46 ID:Ca59Obe4 - 今の飽食状態で、畜産で動物が殺される必然性が感じられるかどうかというと、今の自分達の道徳観念の背景を含めても
当然とは思いきれない部分があるでしょう。屠殺は分業化で切り離され、食料の輸入によって様々な食材が溢れています。 そんな飽食の状態で、ましてや自分が必要として自ら命の危機を背景に動物を殺生するのでもなく自動的に肉がでてくるのでは、 必要な殺生だったと心から帰結できないのはむしろ当然な心の動きではないでしょうか? 自分が肉を食べる事を極端に心から否定する人間に物申したいのは、あなたは食生活と生活環境上で命の危機に晒される事が無いから そのような事が言えるのだという事と。畜産や牧畜、酪農が最初はどのような人間の生活背景、環境から成り立ったものか 頭から忘れて非難し、攻撃し、いらないものだと吐き捨てているのではないかということです。 たしかに、今の畜産や酪農には資本主義経済を背景としての行き過ぎた面があるのでしょうが、 しかしだからと言って、全否定や極端な無用の主張、肉食自体を忌避し悪とする人間は、 自分の「正義」以外を理解し、その文化的背景を想像し納得する事ができる想像力と協調性と配慮が、欠けているようにしか思えてなりません。 そしてベジタリアンだからと言って攻撃する人は、今この社会では、 菜食だけで暮らせる生活も可能なのですし相手も何かしら背景があるのだから、食事で出会っても何も言わないべきです。 その人はその人にとって筋の通る理由があるのですから反論、反発なんて気持ちを病むことでしかありません。 動物の命が大事だから肉は必要としない人は、それはそれで筋が通るではありませんか、可能な限りの殺生を意識することがない生活を送りたいのですから。 また、健康上でやっている人間もいますし、ペットの動物愛護の人が肉を食べるのもその人達の理由があるのですから矛盾だと思う必要もありません。 人間は何か主義主張、考えを持たずにはいられません。それを遂行したければ、回りをも巻き込み急進的に極端な団体になることもあります。 自分も自分の中に主張したい考えがあるから書き込んでいます。言いたいからです。 ベジタリアンの人達も自分達と何ら変わりはありません、やりたいことをしたいのです。 互いにそこは理解して線引きするしかないのでしょうが、それができないのも人間です。 今後このベジタリアン、ヴィーガン、動物の権利運動がどうなるかはわかりませんが 急進的で過激なうちは、あまり好意的に取り上げられるものではないでしょう。 過激な人は自分が過激ではないと思っているようですし、環境への味方みたいに思っている節もあります。 その上でどういう方向にその運動の先と結果がでるかはわかりませんが こうやって書き込める場は大変ありがたいと思います。 長文失礼致しました。
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