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862 :なごやん[]:2011/11/12(土) 11:36:19.20 ID:kjd4vDeI0 - >>860
>澤田 逸材だよ。ただ鈴川のように実力がないとおいしくないことに気付いて、 プロレスムーブではなくて格闘技ムーブを身に付けてで闘って欲しいね。 >>854 >タブー タブーじゃなくて、建前なんだよ。相撲でも八百長がはびこってるのは 前々からいわれてたけど、でも厳然と突きつけられたら問題になって 人気が下がった。石原都知事は「前から分かっていたことだから驚くに 値しない」とか馬鹿なこと言っていたが、建前が崩れたら成り立たない。 プロレスも八百長バレバレの擬似格闘技だけど、真剣勝負の振りをして いるから成り立っている。 >>853 >商魂 商魂は当たり前のことだ。それがなかったら嘘になる。でも経済的動機 だけでは経済的成功はついてこない。なぜなら金を追いかけても金それ 自体は人の役に立つことで手に入るものだからだ。金のみを追いかければ 手っ取り早い方へ流されてしまう。だからこそ経済的動機を潜ませつつも 何によって人の役に立つかを考えないといけない。そこに闘魂があり、 同時に商魂が潜むことになる。
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863 :なごやん[]:2011/11/12(土) 11:45:21.90 ID:kjd4vDeI0 - >>851
>初期のUFCみたいに忍術とか喧嘩屋とか色んな競技の選手集めて大会開いても >おもしろいとおもうんだけどね。 一般的な価値観を踏まえていうと、これは半分正解なんだよ。プロレスの 同一性に立ち返ったときそれは「選手の実人生に基づいた物語のある諸格闘技 の交錯」なわけだから、初期UFCはまぎれもないプロレスだった。しかし UFCがプロレスを損なったのは、一元的ルールに拘泥したからだ。すなわち 歴史を積み重ねることで技術が研鑽されルールが厳密化されてくると、諸 格闘技の交錯の場ではなくて体の使用部位が大きい一格闘競技として確立 してしまう。つまりUFCがプロレス性を維持できたのは、洗練されていない いい加減なルール・未熟な技術体系がそれを可能にしていただけの話で、 こうしてなんでもありのVT(プロレス)は、これだけありのMMAになり 今のUFCとなったといえるだろう。では歴史的にプロレス消滅は不可避 なのかというと全然違う。なぜならMMAは単なる横道だからだ。
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864 :なごやん[]:2011/11/12(土) 11:55:11.19 ID:kjd4vDeI0 - >>849
>猪木が総合の源流だろうがそうじゃなかろうが 馬鹿なこと言うな、源流が何であるかといえば日本では力道山に決まってる。 猪木vsアリは真剣勝負への感覚が弛緩してきたから猪木が打ち出したもので あって、ハイスパートレスリングも、UWFも、PRIDEも、みんな力道山 の焼き増しだよ。だから猪木は「力道山イズム、猪木イズムを現代にも伝える」 っていってるんじゃないか。IGFの理念がホムペに書いてあるから、100回 読み直せ。 IGFをWJみたいなネタとして楽しみたいというのもいいだろう。また 新日本やNOAHのような新プロレスとして楽しむのもいいだろう。でも 猪木の狙いはそこではないし、IGFの本質はプロレス同一性の確保で あり、世間との対峙だ。IGFに何かを感じてここへいたのなら、どうか それがなんであるか、をこのスレで少しでも明確にしてもらえたらと思う。
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865 :なごやん[]:2011/11/12(土) 12:05:36.50 ID:kjd4vDeI0 - >>839
>なんで日本人なら猪木が源流って思わないと不自然みたいな事になるのかが >不思議。 日本のプロレスの源流がパンクラチオンにあるとジョシュや異人伝がいっていた が、これは全くの誤り。そもそも古代パンクラチオンとはなんら関係性がない。 パンクラチオンは自然共同体的な中間集団において戦気昂揚のために行われて いたもので、公共性が経済主体になるとその暴力性は近代国家に簒奪される ことになるのでこうして今や暴力は国家の独占状態になって現代に至っている。 ではプロレスとはなにかというと、もともとカーニバルレスリングでサーカス の出し物であり、その出し物に格闘技要素を取り込んだだけの話にすぎない。 そしてそれがメディアの発達により国民的規模で拡大したんだ。
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866 :なごやん[]:2011/11/12(土) 14:46:58.51 ID:kjd4vDeI0 - >>835
>特化してる時点で「総合」とは言えない 総合というものを正確に捉えていないからそういうことになる。総合とは VTからMMAまでの幅広い概念であり、つまり諸格闘技の総合から諸技術 体系の総合の理念がある。だから相対的な諸格闘技の交錯は総合だし、 その中の一競技に過ぎないMMAも総合であるとされる。 しかしここで重要なのは、俺だけが主張する次の事柄である。すなわち 猪木vsアリはプロレスvsボクシングなどではなく、MMAvsボクシング であったということだ。このことに言及しているのは恐らく俺だけだろう。 諸格闘技の交錯がプロレスであるなら、プロレスの中でプロレスvs ボクシングになると、プロレスの中でプロレスが行われるという矛盾が 生まれてしまう。馬場も「プロレスのリングで行われる以上はプロレスだ」 といっていたように、猪木vsアリはプロレスであり、その中で猪木は 総合的な技術体系を持ったMMA選手として、アリはボクサーとして闘った のだ。
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880 :なごやん[]:2011/11/12(土) 23:26:52.76 ID:kjd4vDeI0 - >>867
>猪木がやっていたのは格闘技ではなくプロレスだったんだから。 総合格闘技の源流はカーニバルレスリングだ。日本においてはそれが力道山を 通じてメジャーになり、猪木や前田を経て、それがPRIDEとなったわけだ。 ここで重要なのは「猪木がやってたのはプロレスで格闘技ではない」という 見解がいつ生じたのかということだ。当事はプロレスはガチと信じられていた わけで、少なくとも当事の見解ではない。つまりこれは今の時代から見た見解 であるにすぎない。大切なのは猪木が当事なにをやっていたかではなくて、 当事何をやっていたか大衆に判断されていたかだ。こう考えると今の総合 格闘技と同じように捉えられていたわけだから、当事の大衆にとっては猪木は 総合格闘家であったということが、直ちに理解してもらえると思う。
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881 :なごやん[]:2011/11/12(土) 23:34:53.43 ID:kjd4vDeI0 - 今風にいえば力道山も猪木も馬場も総合格闘家であった。何をやっていたかは
重要じゃない。興行とは大衆相手に感情浄化を与えて金を落としてもらうもので あり、大衆にとってどう判断されるかが問題であって、ガチと判断されていた 以上は八百長でも真剣勝負の総合格闘技なんだ。しかし大衆が変わって今までの 手法では大衆が総合と判断しなくなってしまった。そこで手法を変えて大衆 の中に総合を維持しなければならないのにそれをしなくなったのが90年代の 新日本だ。新日本は大衆にとって総合と判断されるように努力すべきところを、 換言すればそうしてきた力道山や猪木の伝統を捨てて、別に判断されるものを 維持させてしまった。ここに今日のプロレスの死滅がある。IGFとは今 この世に存在しなくなったプロレスを復活させ、天下を取る試みである。
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