- 三島由紀夫と楯の会
426 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/08(火) 10:36:50.48 ID:KOCuU+a8 - (中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや 自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、 目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、 日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな 目的に対する有効性によつて判断してゐる。 それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして 工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに 予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
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- 三島由紀夫と楯の会
427 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/08(火) 10:37:10.05 ID:KOCuU+a8 - 工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。 陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、 もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
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- 三島由紀夫と楯の会
428 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/08(火) 10:37:30.64 ID:KOCuU+a8 - もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを 用意するかもしれない。 われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に 対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を 掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を 戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
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- 三島由紀夫と楯の会
429 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/08(火) 10:37:51.46 ID:KOCuU+a8 - 一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が 貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に 対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。 精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、 最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその 政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの 陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の 闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。 三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
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