トップページ > 戦争・国防 > 2011年03月07日 > UaF2S6iL

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名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫と楯の会

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三島由紀夫と楯の会
419 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 11:45:04.44 ID:UaF2S6iL
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
420 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 11:45:31.16 ID:UaF2S6iL
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
421 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 11:45:51.32 ID:UaF2S6iL
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
422 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 11:46:12.25 ID:UaF2S6iL
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
423 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 15:32:12.24 ID:UaF2S6iL
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
424 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 15:32:30.85 ID:UaF2S6iL
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
三島由紀夫と楯の会
425 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/07(月) 15:32:51.92 ID:UaF2S6iL
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より


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