トップページ > 戦争・国防 > 2010年11月10日 > ReM4U5Ft

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名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫と楯の会

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三島由紀夫と楯の会
307 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/11/10(水) 00:15:15 ID:ReM4U5Ft
体を通してきて、行動様式を学んで、そこではじめて自分のオリジナルをつかむといふ日本人の文化概念、
といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕むものと
見られてゐる。政治体制の掣肘の甚だしい例は戦時中の言論統制であるが、源氏を誨淫の書とする儒学者の思想は、
江戸幕府からずつとつづいてゐた。それはいつも文化の全体性と連続性をどこかで絶つて工作しようといふ政策で
あつた。しかし文化自体を日本人の行動様式の集大成と考へれば、それをどこかで絶つて、ここから先はいけない、
と言ふことには無理がある。努力はむしろつねに、全体性と連続性の全的な容認と復活による、文化の回生に
向けられるべきなのであるが、現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、
際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり、戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と
偽善が生じたのであつた。つねに抑圧者の側のヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、戦時中も現在も
変りがない。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
三島由紀夫と楯の会
308 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/11/10(水) 00:16:17 ID:ReM4U5Ft
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねて
おいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。
しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、
いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。
守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に
目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。
守るといふ行為には、かくて必ず危険がつきまとひ、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るには
つねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
文化主義はこのパラドックスを回避して、自らの目をおほふ者だといへよう。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
三島由紀夫と楯の会
309 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/11/10(水) 00:17:30 ID:ReM4U5Ft
(中略)力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の
演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。(中略)そこ(文化主義が暴力否定から国家権力の最終的否定に
陥る経路)では「文化」と「自己保全」とが、同じ心理的メカニズムの中で動いてゐる。すなはち、文化と
人文主義的福祉価値とは同義語になるのである。
かくて、文化主義の裡にひそむ根底的エゴイズムと恐怖の心理機構は、自己の無力を守るために、他者の力を
見ないですまさうとするヒステリックな夢想に帰結する。
冷徹な事実は、文化を守るためには、他のあらゆるものを守ると同様に力が要り、その力は文化の創造者保持者
自身にこそ属さなければならぬ、といふことである。これと同時に、「平和を守る」といふ行為と方法が、
すべて平和的でなければならぬといふ考へは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡してゐる
女性的没論理の一種である。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
三島由紀夫と楯の会
310 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/11/10(水) 00:18:56 ID:ReM4U5Ft
(中略)
もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのやうに、守られるだけの受動的存在で
あるならば、すなはち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このやうなものを守る行為は、
パリ開城のやうに、最終的には敗北主義か、あるひは、守られるべきものの破壊に終るであらう。従つて
「守る」といふ行為にも亦、文化と同様に再帰性がなければならない。すなはち守る側の理想像と守られる側の
あるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで、守る側の守られる側に対する同一化が、
最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのやうな同一化の可能性は
ありえず、この種の可能性にこそ守るといふ行為の栄光の根拠があると考へられる。国家の与へうる栄光の根拠も、
この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」といふ行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、
守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されてをり、ここに、文化の本質的な性格があらはれてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
三島由紀夫と楯の会
311 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/11/10(水) 00:19:59 ID:ReM4U5Ft
すなはち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(といふよりは、源泉の主体に流れを汲むところの
創造的個体)に要求してゐるのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このやうな意味の
「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによつて、自己の超越的契機になるのは
この地点である。
従つて、文化は自己の安全を守るといふエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。現在、平和憲法を守ることが、
一方では、階級闘争の錦の御旗になり、闘争とは縁のない、感情的平和主義者、日和見主義者、あらゆる
戦ひの放棄による自己保全を夢みるマイ・ホーム主義者、戦争に対する生理的嫌悪に固執する婦人層などの、
自己保全派の支持層に広汎に支へられてゐるといふ事情は、イデオロギッシュな自己放棄派が、心情的自己保全派に
支持されてゐるといふ矛盾を犯してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より


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