- 【BS12】バビロン・ベルリン【バレ禁】
582 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:30:43.87 ID:KXcyvU7q - 諫早勇一 『ロシア人たちのベルリン 革命と大量亡命の時代』(東洋書店、2014)
ロシア革命直後たくさんの人がロシアを去って亡命したことはよく知られている (「亡命の第1の波」という)。 彼らが腰を落ち着けた先はフランスやドイツ、アメリカ、カナダなどだったが、 ロシア亡命文化の栄えた都市と言えば、何と言ってもパリとベルリンとプラハだろう。
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583 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:34:02.21 ID:KXcyvU7q - 内容説明
現在も存在する、世界中に散らばる「もう一つのロシア」の原点は ワイマール時代のベルリンにあった。 20世紀初頭、革命と内戦から逃れて祖国を離れた百万人ともいわ れるロシア人たちの運命と生を描く。 目次 二〇世紀と亡命者たち 亡命の第一波 ロシア人たちのベルリン 亡命生活 文化の共生―亡命ロシアとソヴィエト・ロシア 花開く文化(出版と定期刊行物;文学;演劇・美術・映画・音楽・思想) 「ロシア人たちのベルリン」―さまざまな位相
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584 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:43:33.89 ID:KXcyvU7q - 日本へ何人くらい逃れてきたのか
革命後、1921年までに約200万人がロシアから亡命した。 そのうち日本へ何人くらい逃れてきたのか、正確な数字は不明だ。 ロシア人の住民登録者数が最も多かったのは1930年(昭和5年)の1666人であるが、 これはあくまでも居住者として登録された数。実際は未登録の人や日本を経由し 第三国へ逃れていった人が相当数おり、革命直後は、おそらく五千人から一万人の 間くらいという規模でロシア人が滞在していたと見られている。
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585 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:45:37.39 ID:KXcyvU7q - 白系ロシア人が生計を立てる手段としては、まず羅紗(らしゃ)や洋服の行商があった。
和服から洋服へ日本人の普段着が移行するにあたって、白系ロシア人はこれを促進した。 バレエ、ピアノ、バイオリンを教えて優れた弟子を育てたのも彼らだ。 エリアナ・パヴロワは、日本バレエの母とも言われている。 1913年に開校したばかりの宝塚音楽学校で、ダンスや歌の教鞭をとった人もいた。 スポーツ界では日本で初めての外国出身プロ野球選手となったヴィクトル・スタルヒン、 製菓業界では高級チョコレートを日本にもたらしたフョードルとヴァレンチンの モロゾフ父子やマカール・ゴンチャロフといった人々が有名である。
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586 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:54:37.01 ID:KXcyvU7q - 戦後昭和の時代に輝かしい戦績を残した元・横綱「大鵬」関も、ロシア革命で逃げてきた、
ウクライナのコサック貴族が父で、日本人女性が母のハーフです。 しかし、横綱でいる時には、誰も、「大鵬」の出自を言及する気配はなく、日本中、 ハーフだと思う人はいませんでした。 対照的なのは、野球の太田幸二というピッチャーがいました。 が、彼は、ハーフとして知られていましたが、やはり、ウクライナ人とのハーフでした。
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587 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/26(火) 23:58:07.68 ID:KXcyvU7q - パリの亡命ロシア人
1920年代、ロシアから多くの亡命者を受け入れたパリでは、 亡命貴族によるファッションメゾンが次々と設立され、 ニコライ2世のいとこでロシア最後の大公女といわれるマーリア大公女、 また、ラスプーチンの暗殺で有名なユスポフ公爵夫妻も、 パリでファッションメゾンを開きました。 そうした亡命ロシア人による影響は、パリに留まらず、ロンドンや北米、 上海やハルビン、イスタンブールといった地域へ波及していきました。
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