- 【BS12】バビロン・ベルリン【バレ禁】
511 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 10:49:09.15 ID:F75/269v - ドイツ共産党(Kommunistische Partei Deutschlands略称:KPD)
は、かつて存在したドイツの共産主義政党。 第一次世界大戦中の非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。 ドイツ革命直後の頃に結党され、ヴァイマル共和政期に 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)とドイツ社会民主党(SPD) に次ぐ第三党まで上り詰めたが、 1933年にナチ党が政権を獲得すると国会議事堂放火事件を口実に禁止された。
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512 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 10:51:38.61 ID:F75/269v - 第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した
急進左派カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらが創設した 非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。 ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団は ロシア十月革命に倣った革命扇動を開始したが、 反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた。 1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で 「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、 直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも 社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗。 リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、 代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。
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513 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 11:01:03.72 ID:F75/269v - 「社会ファシズム論」とナチスとの共闘
共産党は、ナチ党と社民党を同類としながらも主敵は権力を握る社民党に定めていた。 ナチ党については、共産党がその気になればいつでも腕づくで始末できる小物に過ぎ ないと見下しており、彼らへの対策は「ファシストは、出会いしだい殴り倒せ!」 という街頭闘争スローガンだけで十分と判断されていた。 のみならず、共産党は社民党に対する闘争の範囲内においては、 ナチ党との共闘も厭わなかった。 1931年夏には所謂「国民反対派」(ナチ党、国家人民党、鉄兜団など) がプロイセン州の社民党政権の打倒を狙ってプロイセン州議会解散を 求める国民請願を開始したが、 共産党も彼らと統一戦線を張って請願運動に参加している。 議会内においても共産党議員団はしばしばナチス議員団と共同戦線を張った。
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514 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 11:21:02.77 ID:F75/269v - ドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands、略称 SPD)
1918年11月のドイツ革命直前に政権に参加し、革命の中で社民党党首エーベルトが政権を掌握。 労兵評議会の全権掌握を要求する在野の急進左派勢力を武力で制圧して国民議会を招集し、 当時世界で最も民主的と言われたヴァイマル憲法の可決を主導した。 ヴァイマル共和政下では中央党(Zentrum)や民主党(DDP)とともに 穏健左派・中道・リベラルの連立政権ヴァイマル連合を形成することが多かった。 1919年から1925年までエーベルトが初代大統領を務め、 1919年から1920年と1928年から1930年にかけては首班で内閣を組閣した (シャイデマン内閣、バウアー内閣、ミュラー内閣)。 1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)が政権に就くと活動を禁止 され、解散に追い込まれた。
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515 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 11:27:59.19 ID:F75/269v - 中央党(Zentrumspartei)
1920年6月6日の国会選挙でドイツ社会民主党を中心とした政権が崩壊した後、 中央党を中心とした連立政権の時代が始まる。 小党分立のヴァイマル共和国においては連立内閣となることが前提であり、 中道の中央党は左派・右派のどの勢力との連立も可能であった。 特に社会民主党とドイツ民主党と連立して中道左派のリベラル与党を形成することが多く、 これを「ヴァイマル連合」と呼んだ。 中央政府においては右翼のドイツ国家人民党と連立することもあったが、 プロイセン州では中央党は一貫してヴァイマル連合で与党を形成していた。 ヴァイマル共和国において社民党と並んで最も多くの首相を輩出し、 歴代政権において主導的な役割を果たした。 コンスタンティン・フェーレンバッハ(1920年6月-1921年5月)、 ヨーゼフ・ヴィルト(1921年5月-1922年11月)、 ヴィルヘルム・マルクス(1923年11月-1924年12月、1926年5月-1928年6月)、 ハインリヒ・ブリューニング(1930年3月-1932年5月) の四人の宰相が中央党所属であった。
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516 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 12:12:04.13 ID:F75/269v - ドイツ人民党(ドイツ語: Deutsche Volkspartei、略称DVP)ドイツ国民党とも訳される。
人民党は「実業界の親玉の政党」と俗称されたように議員の多数が大企業や銀行の取締役会や 監査役会の理事で占められていたが、政党政治においては大企業や銀行から一定の自立性を有した。 1923年1月にフランス軍によるルール占領があり、それに対してクーノ内閣は 「消極的抵抗」路線を取ったが、 それにより極度のハイパーインフレーションが発生した。 夏までにはクーノ内閣は完全に行き詰り、 代わってシュトレーゼマンを首相とする人民党首班内閣が誕生し、 共産党と国家人民党の左右両極を除く全政党の支持を受けた。 この内閣は3か月しか続かなかったが、ルール地方の「消極的抵抗」 の中止とレンテン・マルクによるマルクの安定という功績を残した。 その後シュトレーゼマンは、1923年から1929年の死去まで 第1次・第2次マルクス内閣、第1次・第2次ルター内閣、第3次・ 第4次マルクス内閣と6つの内閣で一貫して外務大臣を務めた。 シュトレーゼマンはヴェルサイユ条約の遵守を旨とする「履行政策」を推進し、 西方諸国との親善関係を増進させ、1926年にはノーベル平和賞を受賞した。
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517 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 12:21:38.36 ID:F75/269v - ドイツ民主党( Deutsche Demokratische Partei、略称:DDP)
1930年ドイツ国家党(Deutsche Staatspartei、略称:DStP)と改名 ヴァルター・ラーテナウに代表される大資本家の支持を受けていたが、 議会主義に立脚して調停者の役割を果たそうとしたため、 ドイツ社会民主党(SPD)や労働組合の社会政策・労働政策にも協力的であり、 中小資本家や都市中間層、知識人層、一部労働者層からも支持を受けていた。 とりわけフーゴ・プロイスやマックス・ヴェーバーとアルフレート・ヴェーバー の兄弟など有名な学者たちが異彩を放った。 さらに民主党支持層にはユダヤ人が多かったため、反ユダヤ主義者から 「ユダヤ人の党(Juden Partei)」と呼ばれて攻撃に晒された。 人民党のシュトレーゼマンも「民主党は巨大な財源を自由にでき、 全ユダヤ銀行がその背後にいる」と述べている。
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518 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 12:30:25.91 ID:F75/269v - ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei, 略称:DNVP)
第一次世界大戦後の1918年12月にドイツ保守党(DKP)や自由保守党(FKP) など帝政時代の保守政党が合同して結党された。 ヴァイマル共和政に反対する保守野党としてリベラルな政府と徹底対決した。 1925年から1928年にかけてはやや穏健化し、政権に参加した時期もあるが、 1928年以降はフーゲンベルク指導のもと保守野党路線に戻った。 ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と反政府で共闘し、 1933年に成立したヒトラー内閣に連立与党として参加したが、 同年中にヒトラーの圧力により自主解散させられた。 主な支持層はユンカー(東エルベの大地主貴族)や実業家などであり、 伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョワ政党」 であった。 ドイツ皇室の復活を求める帝政復古派も多かった。
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519 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 13:15:07.72 ID:F75/269v - Emil Gilels - Grieg: Lyric Pieces. Recorded for Deutsche Grammophon in 1974.
第7話の最後の方でベンダ行政長官がグリークの叙情小曲集を弾いてたが 第15話のエンディングでもグリークが使われている Absolutely, beautiful. https://www.youtube.com/watch?v=yMqnGva32Vs
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520 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 16:26:16.71 ID:F75/269v - アデナウアーケルン市長 中央党
ゲレオンの父親 中央党 ツェルギーベル警視総監 ドイツ社会民主党 ベンダ行政長官 ドイツ民主党 1930年ドイツ国家党と改名 シュトレーゼマン外相 ドイツ人民党 ドイツ国民党とも訳される 顔に痣のある ニッセン 1931年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党 ヴォルカー女医 共産党 ヒンデンブルク大統領 無所属
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521 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 16:41:12.81 ID:F75/269v - パウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)
(1847年10月2日 - 1934年8月2日) ドイツ国第2代大統領(在任:1925年 - 1934年) 第一回大統領選挙 穏健左派の与党「ヴァイマル連合」(社民党・中央党・民主党)陣営は、 候補者の一本化を図り、中央党のヴィルヘルム・マルクスを候補に担いだ。 一方、これに危機感を募らせた国家人民党をはじめとする保守・右派陣営隊は、 公然たる帝政派で、また「タンネンベルクの英雄」の名声を持つヒンデンブルク を候補に担ぎ出そうとした。 帝政派のヒンデンブルクは初め「共和制を認めることはできない」として立候補 の要請を拒否したが、アルフレート・フォン・ティルピッツの説得を受け、 オランダに亡命中のヴィルヘルム2世に伺いを立てたうえで無所属で立候補 することを決意した。
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522 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 16:42:55.99 ID:F75/269v - 第二回大統領選挙
ヒンデンブルク大統領の7年の任期が切れ、1932年3月13日に大統領選挙が予定された。 ヒンデンブルクはこの時84歳を超えており、少し前には意識不明の重体に陥った事も あり、出馬は無理と考えられていたが、ヒンデンブルクが不出馬の場合ヒトラーが 大統領に当選する公算が大であったため、ブリューニング首相やヴァイマル共和国派 から出馬を求められた。 結局ヒンデンブルクは2月15日に出馬宣言を行い、再選を目指すことにした。 この選挙でのヒンデンブルクは主に中央党、社民党、労働組合、 ユダヤ勢力などから支持を受けた。
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523 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/18(月) 18:53:58.04 ID:F75/269v - ハインリヒ・ブリューニング(Heinrich Brüning)
(1885年11月26日 - 1970年3月30日)1930年から1932年にかけて首相を務めた。 故郷ミュンスターのギムナジウムを卒業後、ミュンヘン大学に入学し法学を学ぶが、 1906年にシュトラースブルク大学に転じて専攻も哲学・史学・ドイツ語に変更する。 1911年に高等教員資格試験に合格するが、教師にならずイギリスに渡り ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学を学ぶ。 1913年、ボンに戻りその2年後に経済学博士号を取得し、当時として異例に長い学業を終えた。 卒業と同時に軍に志願して機関銃部隊の少尉として第一次世界大戦に従軍。 24年中央党の国会議員,財政,税制の専門家として活躍。 29年中央党党首。 30年 ヒンデンブルク大統領から44歳で首相に任命され経済恐慌の克服に努めたが 不況を打開できず 32年辞任。 その間非常大権を連発して国会軽視の慣習をつくりワイマール体制崩壊の一因として 批判を受けた。 1934年5月、ナチスの粛清対象にリストアップされているとの情報を得た ブリューニングは、身に迫る危険を避けてドイツを出国し、難を逃れた。 一方、ドイツ国内に留まったシュライヒャーらは1934年6月30日の長いナイフの夜により殺されてしまった。
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