- 【BS12】バビロン・ベルリン【バレ禁】
483 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 22:18:20.20 ID:VmD5xWQg - トロツキーのヒンデンブルク論
大統領の保守的な風貌には冒険主義の痕跡はまったくない。 80歳のヒンデンブルクは政治の分野で何も求めなかった。その代わり、 別の連中が彼を求め、彼を見出したのである。 しかも、彼らは偶然にヒンデンブルクに出会ったわけでない。 これらの連中全員が、同じ旧プロイセンの、貴族的=保守的なポツダム=東エルベの出身である。 たとえヒンデンブルクが他人の行動の隠れ蓑として自分の名前を貸してやったとしても、 彼は、自分の階層の伝統が定めた軌道からむざむざ追い出されるのにまかしておくことはないだろう。 ヒンデンブルクは一個人ではなく、一つの制度なのである。 これこそ、大戦中におけるヒンデンブルクの実態であった。 「ヒンデンブルクの戦略」とは、まったく異なるさまざまな名前をもった連中の戦略にすぎなかった。 この手法が政治の中にそのまま持ち込まれたのである。 ルーデンドルフと彼の副官たちは新しい人々に交替したが、 その方法はいぜんとして変わっていない。
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484 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 22:20:11.59 ID:VmD5xWQg - 保守派、民族主義派、王党派といった、11月革命に敵対するあらゆる勢力が、
1925年にヒンデンブルクをはじめて共和国大統領の地位につけた。 労働者だけでなく、ブルジョアジーの政党も、ホーエンツォレルン家の元帥に反対票 を投じた。だが、ヒンデンブルクは勝った。 ヒトラーに向かいつつある小ブルジョア大衆によって支持されたのであった。 大統領として、ヒンデンブルクは何ごともなさなかった。 しかし、彼は何かを覆すこともしなかった。彼に反対する勢力は、 ヒンデンブルクが軍人としての忠誠心ゆえにワイマール憲法を擁護するようになったと考えるようになった。 それから7年後、純然たる議会政党は、反動によって全戦線にわたって退却を強いられたあげく、 持ち金をこの元帥に賭けることにした。
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485 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 22:22:30.00 ID:VmD5xWQg - 社会民主党とカトリック民主党は、王党派のこの軍司令官に投票することによって、
今では無力な存在になっている共和国に対するいっさいの義務から彼を解放したのであった。 1925年に反動派によって大統領に選出されたとき、 ヒンデンブルクはワイマール憲法にそむかなかった。 1932年に左翼の票によって選出されたときには、 ヒンデンブルクは憲法問題に対しては極右派の観点を採用した。 このパラドクスの背後には何ら神秘的なものはない。 自らの「良心」と「人民の意志」――2つの無謬の法廷――の前に一人立たされたなら、 ヒンデンブルクは、自らが全生涯にわたって忠実に仕えてきた階層の擁護者にならざるをえなかった。 大統領の政策は、土地所有貴族、大資本家の男爵、ローマ・カトリック派やルター派の大銀行家、 そして最後に、といっても重要性に劣るわけではけっしてないのだが――ユダヤ教信徒の銀行家の政策である。
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486 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 22:25:22.37 ID:VmD5xWQg - ヒンデンブルクの政治的参謀たちは、前日まで全国の誰もが考えたこともないような
フォン・パーペンを政府首班に選ぶことによって、選挙が結びつけた大統領と民主的 諸政党とのあいだのつながりの糸を突如として断ち切った。 ドイツのボナパルティズムは、第1段階においては冒険主義の香辛料を欠いていた。 フォン・パーペンは、戦争中の自分の経歴と権力への奇跡的な上昇によって、 ある程度この欠如を補った。 言語についての彼の知識と非の打ちどころのないマナーは別にして、 それ以外の彼の才能について言えば、さまざまな潮流の判断も次の点で一致するだろうと思われる。 すなわち、今後、歴史家はもはや、ミヒャエリスを最も色あせた最も取るに足りない ドイツ帝国宰相であると言うことはできない、と。
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487 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 22:38:44.17 ID:VmD5xWQg - 第13話のクーデターを計画した
クルト・フォン・シュライヒャー(1882年4月4日 - 1934年6月30日)は、 ドイツの軍人、政治家。軍人としての最終階級は名誉階級歩兵大将。 ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領や ヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら 「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。 1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の 国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。 その後、自ら首相となるも、国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラー とパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、 1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。 その後は引退生活を送ったが、 1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人もろとも殺害された。
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488 :奥さまは名無しさん[]:2019/11/15(金) 23:08:02.22 ID:VmD5xWQg - >>482
この動画のコメント欄を読むと この動画は第16話からの抜粋で、喉を切るのは狂言であり、 ソロキナは自害していない。
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