- 【Dlife】グッド・ドクター 名医の条件【バレ禁】★4
285 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:07:50.26 ID:Qn3or42iH - 「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
「伝説巨神イデオン」(1980年)のメカニックデザインをはじめ、「魔境伝説アクロバンチ」(1982年 )、「銀河旋風ブライガー」(1981年)、「銀河烈風バクシンガー」(1982年)、「銀河疾風サスライ ガー」(1983年)といったJ9シリーズ、また「絶対無敵ライジンオー」(1991年)に始まるエルドラ ンシリーズのメカにデザインスタジオ“サブマリン”を率いて参加してきた樋口雄一さん。現在でも玩具デザイ ンを手がけたり、積極的に個展を開きながら、新しいアイデアを温めている。 アニメやロボットにかたくなにこだわったわけではないが、だからこそ樋口さんの人生は、とことん自由だ。ご 自宅に近い南柏駅前の喫茶店で、風のように軽快な人生を振り返っていただいた。 いざとなったら、上野で似顔絵描きになればいい ── 樋口さんは、最初はアニメ業界に入るつもりではなかったと聞いています。確か、最初はアクセサリーの 会社に入ったんでしたね。 樋口 順番に話すと、僕が故郷の新潟から東京へ出てきたのは、ちばてつやさんに弟子入りしたかったからなん です。その当時は、漫画家になりたかったんですね。「もうちょっと社会勉強してから来なさい」と体よくお断 りされて、それが3回ありました。3回目は、上京してからの昭和46年2月14日です。漫画家になるのは難 しそうだけど、仕事はしなくちゃいけない。「東京へ行けば何とかなる」と思っていたのですが、知り合いの紹 介でアクセサリーをデザインする会社に入れてもらいました。絵を描くのは嫌いじゃなかったけど、会社で描い ている絵は僕の描きたい絵じゃないな……と、薄々は感じていました。 その会社は蔵前にあったのですが、カフスボタンだとかアクセサリーの職人さんがたくさんいた場所なんです。 職人さんの中には、何人かアーティストがいました。おそらく、自分の作品では食えないから、アクセサリーの 仕事をしていた人が多かっただろうと思います。
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- 【Dlife】グッド・ドクター 名医の条件【バレ禁】★4
286 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:08:19.07 ID:Qn3or42iH - ちょっとだけ、僕もアートのほうへ近づきたいと思って、上野
に行きました。今でもそうですけど、上野には似顔絵描きさんがいらっしゃるんです。その中でいちばん上手そ うな人に「今日1日だけ弟子にしてください」とお願いして、ついて回りました。そこで僕は、ヘンな自信を持 つんですよ。「いざとなったら、似顔絵描きで食えるな」って。それは勘違いであって、似顔絵描きの人たちは 、実は個展や展示会でちゃんとした絵を売っていて、似顔絵はサブにすぎない、いちばん上手い絵ではないわけ です。なのに、彼らが「家を建てた」なんて話を真に受けて、「俺の方が上手いから食いっぱぐれしないな」と 実力もないくせに、どこへ行っても生意気で、気持ちだけ妙にプライドが高くなってしまった。それ以来、人に 臆するということがなくなったんです。後から勘違いだと気がついても、ずっとその自信は抜けなかったですね。 ── すると、よい方向へ勘違いしたと言えますね。 樋口 きっと、そうだったんでしょうね。 ── アクセサリー会社の次に、デザインメイトに入社して玩具のデザインを始めたのですか? 樋口 いえ、その前に四谷にあった興行会社に入りました。当時のスター(天地真理さんや南沙織さんやキャン ディーズなど)のイベントを、地方の大きなレジャー施設でやるのですが、そのお客さんを集めて会場まで送る のです。僕がやっていたのは、そのイベントのためのチラシでした。一時期、会社に山口百恵さんのお父さんが いらっしゃって、何か月か机を並べて仕事していました。僕は、絵さえ描ければよかったので、山口さんにも興 味ありませんでしたし、会場にも行っていませんでした。 その後は、キャバレーの看板を描く会社に入りました。当時、“ハワイ”というチェーン系のキャバレーがあっ て、写真を見ながら絵を描いたり、レタリングの文字を描いたり、カレンダーやチラシも作っていました。 そんなある日、新潟から一緒に上京してアニメーターになった友だちと、高円寺で飲んでいたんです。「高円寺 のパチンコは出ないねえ」なんて話をしていたら、誰かが「名古屋のパチンコは出るらしいぜ」と言い出すので 、みんなを車に乗せて出かけたんです。 。
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- 【Dlife】グッド・ドクター 名医の条件【バレ禁】★4
287 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:08:41.91 ID:Qn3or42iH - ── 高円寺から名古屋へ?
樋口 そう。その帰り道だと思ったんですけど、アニメーターをしていた仲間のひとりが「俺と一緒に暮らせば ? いまフリーなんだけど広告業界に入りたいから、一緒に勉強しようよ」と誘ってくれたんです。2人で上石 神井にアパートを借りて、奇妙な共同生活が始まりました。そのアパートへ、東京ムービーなどのアニメーター たちが集まって夜な夜な宴会をやったりして、楽しい時代ではあったんですけど、同居人が「樋口、ここがいい んじゃない?」と見つけてくれたのが、デザインメイトの求人広告だったんです 全文はソース先で♪ https://akiba-souken.com/article/40690/
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- 【Dlife】グッド・ワイフ part4【ネタバレ禁止】
604 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:08:55.77 ID:Qn3or42iH - 「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
「伝説巨神イデオン」(1980年)のメカニックデザインをはじめ、「魔境伝説アクロバンチ」(1982年 )、「銀河旋風ブライガー」(1981年)、「銀河烈風バクシンガー」(1982年)、「銀河疾風サスライ ガー」(1983年)といったJ9シリーズ、また「絶対無敵ライジンオー」(1991年)に始まるエルドラ ンシリーズのメカにデザインスタジオ“サブマリン”を率いて参加してきた樋口雄一さん。現在でも玩具デザイ ンを手がけたり、積極的に個展を開きながら、新しいアイデアを温めている。 アニメやロボットにかたくなにこだわったわけではないが、だからこそ樋口さんの人生は、とことん自由だ。ご 自宅に近い南柏駅前の喫茶店で、風のように軽快な人生を振り返っていただいた。 いざとなったら、上野で似顔絵描きになればいい ── 樋口さんは、最初はアニメ業界に入るつもりではなかったと聞いています。確か、最初はアクセサリーの 会社に入ったんでしたね。 樋口 順番に話すと、僕が故郷の新潟から東京へ出てきたのは、ちばてつやさんに弟子入りしたかったからなん です。その当時は、漫画家になりたかったんですね。「もうちょっと社会勉強してから来なさい」と体よくお断 りされて、それが3回ありました。3回目は、上京してからの昭和46年2月14日です。漫画家になるのは難 しそうだけど、仕事はしなくちゃいけない。「東京へ行けば何とかなる」と思っていたのですが、知り合いの紹 介でアクセサリーをデザインする会社に入れてもらいました。絵を描くのは嫌いじゃなかったけど、会社で描い ている絵は僕の描きたい絵じゃないな……と、薄々は感じていました。 その会社は蔵前にあったのですが、カフスボタンだとかアクセサリーの職人さんがたくさんいた場所なんです。 職人さんの中には、何人かアーティストがいました。おそらく、自分の作品では食えないから、アクセサリーの 仕事をしていた人が多かっただろうと思います。
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- 【Dlife】グッド・ワイフ part4【ネタバレ禁止】
605 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:09:13.21 ID:Qn3or42iH - ちょっとだけ、僕もアートのほうへ近づきたいと思って、上野
に行きました。今でもそうですけど、上野には似顔絵描きさんがいらっしゃるんです。その中でいちばん上手そ うな人に「今日1日だけ弟子にしてください」とお願いして、ついて回りました。そこで僕は、ヘンな自信を持 つんですよ。「いざとなったら、似顔絵描きで食えるな」って。それは勘違いであって、似顔絵描きの人たちは 、実は個展や展示会でちゃんとした絵を売っていて、似顔絵はサブにすぎない、いちばん上手い絵ではないわけ です。なのに、彼らが「家を建てた」なんて話を真に受けて、「俺の方が上手いから食いっぱぐれしないな」と 実力もないくせに、どこへ行っても生意気で、気持ちだけ妙にプライドが高くなってしまった。それ以来、人に 臆するということがなくなったんです。後から勘違いだと気がついても、ずっとその自信は抜けなかったですね。 ── すると、よい方向へ勘違いしたと言えますね。 樋口 きっと、そうだったんでしょうね。 ── アクセサリー会社の次に、デザインメイトに入社して玩具のデザインを始めたのですか? 樋口 いえ、その前に四谷にあった興行会社に入りました。当時のスター(天地真理さんや南沙織さんやキャン ディーズなど)のイベントを、地方の大きなレジャー施設でやるのですが、そのお客さんを集めて会場まで送る のです。僕がやっていたのは、そのイベントのためのチラシでした。一時期、会社に山口百恵さんのお父さんが いらっしゃって、何か月か机を並べて仕事していました。僕は、絵さえ描ければよかったので、山口さんにも興 味ありませんでしたし、会場にも行っていませんでした。 その後は、キャバレーの看板を描く会社に入りました。当時、“ハワイ”というチェーン系のキャバレーがあっ て、写真を見ながら絵を描いたり、レタリングの文字を描いたり、カレンダーやチラシも作っていました。 そんなある日、新潟から一緒に上京してアニメーターになった友だちと、高円寺で飲んでいたんです。「高円寺 のパチンコは出ないねえ」なんて話をしていたら、誰かが「名古屋のパチンコは出るらしいぜ」と言い出すので 、みんなを車に乗せて出かけたんです。
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- 【Dlife】グッド・ワイフ part4【ネタバレ禁止】
606 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:09:28.06 ID:Qn3or42iH - ── 高円寺から名古屋へ?
樋口 そう。その帰り道だと思ったんですけど、アニメーターをしていた仲間のひとりが「俺と一緒に暮らせば ? いまフリーなんだけど広告業界に入りたいから、一緒に勉強しようよ」と誘ってくれたんです。2人で上石 神井にアパートを借りて、奇妙な共同生活が始まりました。そのアパートへ、東京ムービーなどのアニメーター たちが集まって夜な夜な宴会をやったりして、楽しい時代ではあったんですけど、同居人が「樋口、ここがいい んじゃない?」と見つけてくれたのが、デザインメイトの求人広告だったんです 全文はソース先で♪ https://akiba-souken.com/article/40690/
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- 【Dlife】SCORPION/スコーピオン 3匹目【バレ禁】
224 :奥さまは名無しさん (KR 0Hbf-aZqd)[sage]:2019/07/22(月) 15:09:45.30 ID:Qn3or42iH - 「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
「伝説巨神イデオン」(1980年)のメカニックデザインをはじめ、「魔境伝説アクロバンチ」(1982年 )、「銀河旋風ブライガー」(1981年)、「銀河烈風バクシンガー」(1982年)、「銀河疾風サスライ ガー」(1983年)といったJ9シリーズ、また「絶対無敵ライジンオー」(1991年)に始まるエルドラ ンシリーズのメカにデザインスタジオ“サブマリン”を率いて参加してきた樋口雄一さん。現在でも玩具デザイ ンを手がけたり、積極的に個展を開きながら、新しいアイデアを温めている。 アニメやロボットにかたくなにこだわったわけではないが、だからこそ樋口さんの人生は、とことん自由だ。ご 自宅に近い南柏駅前の喫茶店で、風のように軽快な人生を振り返っていただいた。 いざとなったら、上野で似顔絵描きになればいい ── 樋口さんは、最初はアニメ業界に入るつもりではなかったと聞いています。確か、最初はアクセサリーの 会社に入ったんでしたね。 樋口 順番に話すと、僕が故郷の新潟から東京へ出てきたのは、ちばてつやさんに弟子入りしたかったからなん です。その当時は、漫画家になりたかったんですね。「もうちょっと社会勉強してから来なさい」と体よくお断 りされて、それが3回ありました。3回目は、上京してからの昭和46年2月14日です。漫画家になるのは難 しそうだけど、仕事はしなくちゃいけない。「東京へ行けば何とかなる」と思っていたのですが、知り合いの紹 介でアクセサリーをデザインする会社に入れてもらいました。絵を描くのは嫌いじゃなかったけど、会社で描い ている絵は僕の描きたい絵じゃないな……と、薄々は感じていました。 その会社は蔵前にあったのですが、カフスボタンだとかアクセサリーの職人さんがたくさんいた場所なんです。 職人さんの中には、何人かアーティストがいました。おそらく、自分の作品では食えないから、アクセサリーの 仕事をしていた人が多かっただろうと思います。
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