- 四国お遍路同行二人 三十一巡目 [無断転載禁止]©2ch.net
997 :列島縦断名無しさん[sage]:2016/10/23(日) 00:32:32.62 ID:2Fy7JBXd - 室戸岬からの霊場の多くが山の上というのもそういうことなのでしょうね
南海トラフ由来の地震では、直近が昭和21年12月21日の「南海地震」 四国では高知などで震度5、松山などで4、津波も押し寄せ千以上の家屋が流出している その前は「安政南海地震」と言われる1854年12月24日(嘉永7年11月5日)の地震 推定規模はM8.5、推定震度は最高7、津波も推定16m 冬かつ夕食の準備のころということもあり、高知や宿毛などの町では大火災が起こっている その前は1703年10月28日(宝永4年10月4日)の歴史上最大といわれる宝永大地震 被害は東海〜九州におよび、推定規模M9以上とする説もある 津波の被害も深刻で土佐では推定10〜20m超などと推定され、藩の記録で多くの集落が全滅を示す「亡所」、「半亡」などと記されている 久礼では焼坂まで津波が来て「亡所」に、須崎、入野や下ノ加江、大岐など遍路道も通る海沿いの集落がのきなみ「亡所」に 24番金剛福寺下には海中の岩に弘法大師が彫ったという浪切不動明王像があったというが地殻変動のせいか以降見えなくなった 36番青龍寺ちかくの龍の集落は亡所となり、青龍寺も本堂石段手洗い場まで津波が来て客殿を残し壊滅したという 安政・宝永の江戸時代は遍路が庶民に広まった時代、とくに津波の被害が大きかった土佐 土佐は遍路など他国の人の入国に厳しかったので土佐抜きの三国参りをすることもあったとはいえ、遍路もいたはず その前は南海トラフ由来かどうかはっきりしないが、1605年2月3日(慶長9年12月16日) 大きな揺れが無いまま大津波が押し寄せたということで、避難行動が取りにくく被害を増やしたと思われる
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