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名無しさん@お腹いっぱい。
天才・三島由紀夫

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天才・三島由紀夫
466 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 10:16:20.57 ID:bvKedSEa
日本選手でただ一人決勝に残つた佐々木があらはれて、プールぎはの朱色のプラスチックの椅子に脱衣する。(中略)
かういふ日常生活の動作は、こんな晴れの舞台でも、実に孤独なものだ。紺と白のパンツをつけた、きつね色の
よく引き締つた裸体があらはれる。ここからやうやく、輝やかしいオリンピック選手が、日常性のモチから
身を引き離して出発するのだ。
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
天才・三島由紀夫
467 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 10:17:06.85 ID:bvKedSEa
その大きなあきらかな数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
――六百メートルに近づき、佐々木は六位を保つてゐる。
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
天才・三島由紀夫
468 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/07/31(日) 10:18:07.48 ID:bvKedSEa
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あのぬれた顔、
ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは確実なことで
「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。たとへそれが、
一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より


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