- 天才・三島由紀夫
214 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/05(火) 11:29:23.96 ID:bUjK+TIt - 少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の
二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などが はひる。また、不良化とは、稚心を去る暴力手段である。暴力といふこのことだつて既に、生の過食からうまれて くる一つの美しい憲法に他ならない。稚心を去る少年たちは、まづ可能性の海の瑰麗な潮風になぶられる。 神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は拒否せぬ存在である。神は 否定せぬ。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「檀一雄『花筐』――覚書」より 童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。 平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端氏の『抒情歌』について」より 無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「恋する男」より
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215 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/05(火) 11:29:59.42 ID:bUjK+TIt - わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神へのいたましい堕落と
思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては「基督のまねび」それは愛においても肉体の まねびであつた。近代以後さらにその精神の純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「精神の不純」より われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「沢村宗十郎について」より 芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。演劇的批判にしか 耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「宗十郎覚書」より
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216 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/05(火) 11:30:31.98 ID:bUjK+TIt - 小説の世界では、上手であることが第一の正義である。ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから
正義なのである。下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに 悪である。 凡てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。お互がわからないことを誇る悲しい 時代である。なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。もうすこしバカに ならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか 平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より 来年といふ領域は海のやうだ。僕の海への憧れは実はあこがれといふやうなものではない。それは僕の慾情だ。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「一九四八年への慾情」より
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217 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/04/05(火) 11:31:28.46 ID:bUjK+TIt - 大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より 「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。 浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの 芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。 三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より 理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、 まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。 三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
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