- 天才・三島由紀夫
147 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/01(火) 20:07:36.08 ID:wePzUrWp - 柳田国男氏の「遠野物語」は、明治四十三年に世に出た、日本民俗学の発祥の記念塔ともいふべき名高い名著で
あるが、私は永年これを文学として読んできた。殊に何回よみ返したかわからないのは、その序文である。 名文であるのみではなく、氏の若き日の抒情と哀傷がにじんでゐる。魂の故郷へ人々の心を拉し去る詩的な力に あふれてゐる。 (中略) この一章の、 「茲にのみは軽く塵たち紅き物聊(いささ)かひらめきて……」 といふ、旅人の旅情の目に映じた天神山の祭りの遠景は、ある不測の静けさで読者の心を充たす。不測とは、 そのとき、われわれの目に、思ひもかけぬ過去世の一断面が垣間見られ、遠い祭りを見る目と、われわれ自身の 深層の集合的無意識をのぞく目とが、――一定の空間と無限の時間とが――、交叉し結ばれる像が現出するからである。 (中略) 柳田氏の学問的良心は疑ひやうがないから、ここに収められた無数の挿話は、ファクトとしての客観性に於て、 間然するところがない。これがこの本のふしぎなところである。 三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
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148 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/01(火) 20:08:00.10 ID:wePzUrWp - 著者は採訪された話について何らの解釈を加へない。従つて、これはいはば、民俗学の原料集積所であり、
材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね方は、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。 データそのものであるが、同時に文学だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話も、真実性、信憑性の 保証はないのに、そのやうに語られたことはたしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、 それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは学問の対象である。しかし、これらの原材料は、 一面から見れば、言葉以外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野といふ山村が 実在するのと同じ程度に、日本語といふものが実在し、伝承の手段として用ひられるのが言葉のみであれば、 すでに「文学」がそこに、軽く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の緑に映してゐるのである。 三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
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149 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2011/03/01(火) 20:08:22.50 ID:wePzUrWp - さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読んで、「遠野物語」の新しい読み方を
教へられた。氏はこの著書の拠るべき原典を、「遠野物語」と「古事記」の二冊に限つてゐるのである。近代の 民間伝承と、古代のいはば壮麗化された民間伝承とを両端に据ゑ、人間の「自己幻想」と「対幻想」と「共同幻想」の 三つの柱を立てて、社会構成論の新体系を樹ててゐるのである。(中略) さういへば、「遠野物語」には、無数の死がそつけなく語られてゐる。民俗学はその発祥からして屍臭の漂ふ 学問であつた。死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない。このことは、近代現代文学の本質的孤立に 深い衝撃を与へるのである。 しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも学問的素人として、一つの文学として玩味することのはうを 選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、真実の刃物が無造作に 抜き身で置かれてゐる。 三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
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