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アスリート名無しさん
フェンシングを語るスレ 6

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フェンシングを語るスレ 6
809 :アスリート名無しさん[sage]:2014/11/22(土) 20:32:31.48 ID:fLFVJh2u
(東京五輪物語)フェンシング男子団体 好調一転、メダル消えた
2014年11月22日16時30分

 ■1964−2014−2020

 殊勲の大川平三郎選手に飯田雄久監督らが飛びついていく。
 1964年10月16日、東京五輪のフェンシング・フルーレ男子団体準々決勝。日本が強豪ハンガリーを破り、メダル確定に王手をかけた直後の写真だ。
 この瞬間、主将だった田淵和彦さん(78)は冷静に、メダル獲得のシナリオを描いていた。
 「準決勝でポーランドに勝つのは難しい。3位決定戦で当たるフランスになら勝てる」
 確信に近い裏付けがあった。
 田淵さんは大川選手と、この2年前からフランスに留学。国際大会を豊富に経験し、各国選手との相性が頭に入っていた。
 特にフランス勢は気心が知れていた。「日本人は体力は見劣りするが、技術なら負けない」。そこで監督に、準決勝で消耗せずに3位決定戦を見据えた戦いを進言した。だが結論は、「準決勝に最善を尽くそう」。
 その準決勝。大川選手は3戦全勝と大活躍したが、他の3人が振るわず敗戦。ところが、フランスとの3位決定戦は一転、大川選手が3戦全敗と精彩を欠き、4位に終わった。田淵さんは、「体力的に限界でした。勝負に、たられば、は禁物ですけど、惜しかった」。
 田淵さんはその後、母校の同志社大教授になり、競技の強化に尽力した。あと一歩届かなかったメダルの夢をかなえてくれたのは、母校の後輩だった。
 2008年北京五輪。その春に大学を卒業した太田雄貴が銀メダルに輝き、日本フェンシング界初のメダルをもたらした。「同志社を背負う太田が取ってくれたのは、うれしかった」。半世紀近い悲願が成就した。(稲垣康介)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11470324.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11470324


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