- 弓道激論帝国
42 :流祖[]:2011/12/25(日) 12:57:09.97 ID:bLLvsDaa - 弓道では、臍下丹田を意識する訳ですから、チャクラを意識しても可笑しくはありません。
7つとも8つとも云われるチャクラですが、それは人の生理的な感覚によって捉えられるものですね。 解剖学的にこれがチャクラだといえるものは無いように思えます。 東洋でも道教の中の仙学で、丹田を初めとしてチャクラに対応するような経路が謳われています。 しかし、そうして練丹した不老不死の仙人が現在世界中に一人も居ない様に思われます。 神や仙人や弓神など、ひとの憧れは、古今東西に共通なようです。 必要以上に、根拠の無い霊的で、超人的な能力に依存することは、 出来ないことを夢見て人生を終える愚人の道に通じることです。 チャクラの知識が有る事は良い事ですから、それを利用できる範囲で用い、人として可能な努力をしていくことが、現実の世界で貴方が自己実現を図れる道のように思えます。
|
- 弓道激論帝国
44 :流祖[]:2011/12/25(日) 15:58:17.71 ID:bLLvsDaa - 弓道の所作は、弓に矢を番えて、的に矢を放つことだが、
その内実は、至誠を尽くして、真と善から美を創出させることだ。 弓を引くには志が必要だが、志を遂げる為には誠を尽くし、志すものが誠であることも特徴的といえる。 弓を引くと、自分のからだでさえ、思い通りにならないのを知る。 心とからだを、弓矢さえも好く統合させなければ、弓矢は扱えない。 その為に、からだに気を通す。 同じように、弓矢にも、的にも気を通す。 そして、気を配り、そこから気付きが有り、気遣うようになる。 こうして、心を通じて、からだや弓矢や的とも、心を通わせ合う。 気を通すと、心の無いものに心が宿ってきて、心が気を通しているものになってしまう。 ここまで来ると、心で感じることが、そのままの弓を引く在り様になっている。 だから、弓を引く時は、無心になる。 無心とは、何も考えないし、何も連想したりしないで、ただ、心に浮かんでは行き過ぎていくその時限りのままに、することだ。 この時、心に我は無く、心に浮かぶ感覚が十全とした心そのものとなる。 心に、からだや弓矢や的が浮かび、また、それに伴う感覚が浮かぶ。 それが、からだや弓矢や的の在り様のままで総てだ。 こうして、心に浮かぶ真実、つまり不言なる真如により、悟りを得て智とする。 この智のままに行動、つまり慧することを、智慧と言う。 弓道は、それ自体が生きることだが、自分の活き方を学ぶ過程でもある。 こうして、智慧に至れば、既に仏だ。 射手が仏になれば、矢は十全と的に中る。 これを正射という。
|
- 弓道激論帝国
46 :流祖[]:2011/12/25(日) 17:45:01.14 ID:bLLvsDaa - 教本巻末の射法八節図だが、改めて見てみると面白い。
会相を真上から見た図・・・胸の表面より、頭の右半分が脇正面に出ている。 私が弓を始めた頃は、背骨がSの字を引き伸ばした形だから、 頭はからだの前へ多少出ていた。 この図と同じ様だった。 これが、背骨を伸ばす様にしていたら、今では顔向けをして会相にすると、 頬付けの位置と胸の位置、そして足踏みの線とが、縦に揃っている。 真上から見ると、胸の厚みの上にほぼ頭部が納まり、頭が脇正面に出ていない。 4年以上も体幹の縦線を伸ばすことを心掛けてきたら、こうなっていた。 だから、他の射手を見ると、肩線と矢筋が異常に離れている様に感じたのだろう。 私の頭蓋に張りついた耳は生来の弓引きの耳だ。 そして、背骨のSの字も変化して、弓引きの縦に伸びた体幹になっていた。 この様に、体が天地左右に伸びた会相は、詰め合い・伸び合いには好い。 そして、会では、もうこれ以上延びることの出来ないほどになっている。 今日、これに気付いて、私も弓引きになったと実感した。
|
- 弓道激論帝国
47 :流祖[]:2011/12/25(日) 19:47:20.13 ID:bLLvsDaa - 弓道ってのは、基本的な構造が1000年以上も変わっていない弓を使っている。
アーチェリーでは、中てる為の科学を総動員している。 それで、弓道では、スタビライザーが無いから、空間での弓の姿勢を保つ為に、射手が技術を施す。 また、弦を誤差が生じないように離すクリッカーが無いから、同様に技術で補う。 他にも、狙いの標準器など、弓道では禁止されているから、射手が工夫している。 そうした技術が、射手によって、天から地ほどの差が有るのが弓道だよ。 また、上級の技術が見た目には分かりにくく、公開されていないから、 アーチェリーもそうだが、弓道はもっと、自己中が多い。
|
- 弓道激論帝国
49 :流祖[]:2011/12/25(日) 22:01:23.42 ID:bLLvsDaa - 弓道の所作は、弓に矢を番えて、的に矢を放つことだが、
その内実は、至誠を尽くして、真と善から美を創出させることだ。 弓を引くには志が必要だが、志を遂げる為には誠を尽くし、志すものが誠であることも特徴的といえる。 弓を引くと、自分のからだでさえ、思い通りにならないのを知る。 心とからだを、弓矢さえも好く統合させなければ、弓矢は扱えない。 その為に、からだに気を通す。 同じように、弓矢にも、的にも気を通す。 そして、気を配り、そこから気付きが有り、気遣うようになる。 こうして、心を通じて、からだや弓矢や的とも、心を通わせ合う。 気を通すと、心の無いものに心が宿ってきて、心が気を通しているものになってしまう。 ここまで来ると、心で感じることが、そのままの弓を引く在り様になっている。 だから、弓を引く時は、無心になる。 無心とは、何も考えないし、何も連想したりしないで、ただ、心に浮かんでは行き過ぎていくその時限りのままに、することだ。 この時、心に我は無く、心に浮かぶ感覚が十全とした心そのものとなる。 心に、からだや弓矢や的が浮かび、また、それに伴う感覚が浮かぶ。 それが、からだや弓矢や的の在り様のままで総てだ。 こうして、心に浮かぶ真実、つまり不言なる真如により、悟りを得て智とする。 この智のままに行動、つまり慧することを、智慧と言う。 弓道は、それ自体が生きることだが、自分の活き方を学ぶ過程でもある。 こうして、智慧に至れば、既に仏だ。 射手が仏になれば、矢は十全と的に中る。 これを正射という。
|