- 弓道激論帝国
3 :流祖[]:2011/12/18(日) 17:56:23.58 ID:VpHSfcCT - 弓道の所作は、弓に矢を番えて、的に矢を放つことだが、
その内実は、至誠を尽くして、真と善から美を創出させることだ。 弓を引くには志が必要だが、志を遂げる為には誠を尽くし、志すものが誠であることも特徴的といえる。 弓を引くと、自分のからだでさえ、思い通りにならないのを知る。 心とからだを、弓矢さえも好く統合させなければ、弓矢は扱えない。 その為に、からだに気を通す。 同じように、弓矢にも、的にも気を通す。 そして、気を配り、そこから気付きが有り、気遣うようになる。 こうして、心を通じて、からだや弓矢や的とも、心を通わせ合う。 気を通すと、心の無いものに心が宿ってきて、心が気を通しているものになってしまう。 ここまで来ると、心で感じることが、そのままの弓を引く在り様になっている。 だから、弓を引く時は、無心になる。 無心とは、何も考えないし、何も連想したりしないで、ただ、心に浮かんでは行き過ぎていくその時限りのままに、することだ。 この時、心に我は無く、心に浮かぶ感覚が十全とした心そのものとなる。 心に、からだや弓矢や的が浮かび、また、それに伴う感覚が浮かぶ。 それが、からだや弓矢や的の在り様のままで総てだ。 こうして、心に浮かぶ真実、つまり不言なる真如により、悟りを得て智とする。 この智のままに行動、つまり慧することを、智慧と言う。 弓道は、それ自体が生きることだが、自分の活き方を学ぶ過程でもある。 こうして、智慧に至れば、既に仏だ。 射手が仏になれば、矢は十全と的に中る。 これを正射という。
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