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名無しさん
愛媛県の神社

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愛媛県の神社
74 :名無しさん[sage]:2020/06/16(火) 22:37:19.40 ID:o8vMShsk
景行天皇 けいこうてんのう

別名
大帯日子淤斯呂和気命 おおたらしひこおしろわけのみこと
大足彦忍代別尊 おおたらしひこおしろわけのみこと

第十二代天皇。第十一代・垂仁天皇の第二皇子。
母は『古事記』では氷羽州比売命、『日本書紀』では日葉酢媛。

纏向の日代宮にて統治された。

景行天皇の御子が、日本武尊(倭建命)。 日本武尊は、熊襲征伐、出雲建の征伐、東方の夷に対する遠征など多くの物語の主人公。

『古事記』では、景行天皇は、 吉備臣等の祖である若建吉備津日子の娘・針間之伊那毘大郎女を娶って、 櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)、倭根子命、神櫛王の五柱を生んだ。
また八尺入日命の娘・八尺之入日売命を娶って、 若帯日子命(成務天皇)、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命を生んだ。
また、ある妃は、豊戸別王、沼代郎女を生んだ。
また、別の妃は、沼名木郎女、香余理比売命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比売命、弟比売命を生んだ。
また、日向の美波迦斯毘売を娶って、豊国別王を生んだ。
また、伊那毘能大郎女の妹・伊那毘能若郎女を娶って、 真若王、日子人之大兄王を生んだ。
倭建命の曽孫・須売伊呂大中日子王の娘・訶具漏比売を娶って、大枝王を生んだ。
その他、合計八十柱の皇子皇女を生んだとあり、皇太子は小碓命、若帯日子命、五百木之入日子命。
一般に小碓命=倭建命とされているが、皇子の倭建命の曽曽孫を妃にするなど、ここでは矛盾がある。

『日本書紀』では、景行天皇は、 播磨稲日大郎姫を皇后として、大碓皇子、小碓尊(日本童男、日本武尊)の双子を生んだ。
また、八坂入媛を妃として、 稚足彦天皇(成務天皇)、五百城入彦皇子、忍之別皇子、稚倭根子皇子、大酢別皇子、 渟熨斗皇女、渟名城皇女、五百城入姫皇女、麛依姫皇女、五十狭城入彦皇子、 吉備兄彦皇子、高城入姫皇女、弟姫皇女の七男六女を生んだ。
また、三尾氏磐城別の妹・水歯郎媛は、五百野皇女を生んだ。
また、五十河媛は、神櫛皇子、稲背入彦皇子を生んだ。
また、阿倍氏木事の娘・高田媛は、武国凝別皇子を生んだ。
また、日向髪長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。
また、襲武媛は、国乳別皇子、国背別皇子、豊戸別皇子を生んだ。
その他、合計八十柱の皇子皇女を生んだとあり、皇太子は小碓尊、稚足彦天皇、五百城入彦皇子。

景行天皇自身も、九州親征を行った。
周防の娑麼(さば)では女酋長の神夏磯媛(かんなつそひめ)が、船の舳に素幡と剣、鏡、瓊をつけた賢木(榊)を立てて天皇軍を迎えたという。 そして媛の願いと協力によって鼻垂、耳垂、麻剥、土折、猪折という賊徒を亡ぼした。
豊後では、女酋長速津媛の手引で、石室に住む土蜘蛛などを滅ぼし、 熊襲の首長厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(せかや)を、その娘の市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)姉妹の手引で殺した。
このように、景行天皇は地方の豪族の女性を味方につけた話が多い。 これは、大碓皇子に女性を盗られて恨んだり、八十柱の子をもうけたことからも女好きだとわかる。

御稜は、山辺の道のほとり(山辺道上陵)。
愛媛県の神社
75 :名無しさん[sage]:2020/06/16(火) 22:46:12.57 ID:o8vMShsk
日本武尊 やまとたけるのみこと

別名
小碓命 をうすのみこと
倭男具那王 やまとをぐなのみこ
倭建御子 やまとたけるのみこ
日本童男 やまとをぐなのみこ
倭武天皇 やまとたけるのすめらみこと
倭建天皇命 やまとたけるのすめらみこと

『古事記』では、第十二代・景行天皇と、吉備臣の祖・若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女との間に、櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那王)、倭根子命、神櫛王の五柱の御子が生まれた。

『日本書紀』では、播磨の稲日の大郎姫、あるいは稲日の稚郎女との間に、大碓皇子、小碓尊の双子が生まれ、一書には、さらに稚倭根子皇子が生まれた。

景行天皇が、美濃国造の二人の娘を召されたところ、これを兄の大確命が横どりし、天皇との朝夕の会食にも顔を出さなくなった。そこで天皇は、弟の小確命を使いに出して詰問させたが、弟は兄を捕えて掴み出し、拉いて投げ捨ててしまった。

景行天皇は小碓命の乱暴をおそれ、その力を生かすために熊曽征伐を申し付けられた。出発の時、命は叔母の倭比売命から女の衣裳を賜ったが、小碓命はそれで女装をして熊曽の宴席にもぐりこみ、女の中に紛れこんで熊曽兄弟を刺し殺した。この時、瀕死の弟建が命に敬服して、倭建の名を献じた。

小碓命はさらに「山神、河神、宍戸神を言向け和し」、さらに出雲建を打ち倒して、都へ凱旋した。

景行天皇は、小碓命に今度は東国の征伐を命じられた。あまりの厳しさに小碓命は景行天皇を恨み、伊勢におられる叔母の倭比売命を訪ねて歎かれた。叔母は小碓命をなだめながら、天叢雲剣、後の草薙剣と袋を与えられた。

小碓命は尾張に至り、ここで美夜受比売と結婚。荒ぶる神々を平定しつつ相模国に到着した。ここでは国造に詐られ、小野という野原の真中で火を放たれてしまった。この時小碓命は、叔母から授けられた草薙剣と、袋の中の火打石を使って、危うく難をのがれた。よってその地を焼津と名づけた。

走水の海では、暴風雨にまきこまれたが、妃の弟橘比売が 「さねさし相武の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という辞世の歌を残し、身を捨てて入水し、嵐の神を鎮めて危難を救った。
小碓命はこうして、遂に安房地方一帯の荒ぶる神どもも平定して足柄峠を越え、自分の身替りとなって入水された弟橘比売を思いつつ、「吾妻はや(ああ吾が妻よ)」と長歎息されたという。これから東国(あづまのくに)という名が出た。

次いで甲斐、信濃を経て尾張に至り、美夜受比売のもとに剣をおかれて、伊吹山の神の平定に向った。しかし山の神の毒気に当って、瀕死の状態になり、能煩野というところに漸く辿り着いて、ここで天皇の坐す都を偲びながら亡くなられた。

命の魂は大白鳥となって天翔け、命の妃や御子達は、その白鳥を追いながら四首の歌を詠まれたと伝える。そしてこの歌は、天皇の御大葬の時に歌うのだという。

『古事記』では、父景行天皇への不満を叔母倭比売命に訴えるが、『日本書紀』では、景行天皇の勅命を奉じ、斧鉞を賜り、勇躍出征する将軍として描かれている。そして命の死を聞かれた景行天皇は、寝食を廃して歎かれ、群臣に詔勅して葬るとある。

『古事記』では倭建命は、第十一代・垂仁天皇の皇女である布多遅能伊理毘売命との間に、帯中津日子命(第十四代・仲哀天皇)をもうけた。
また、弟橘比売命との間に、若建王をもうけた。
また、近淡海の安国造の祖、意富多牟和気の娘・布多遅比売との間に、稲依別王をもうけた。
また、吉備臣建日子の妹・大吉備建比売との間に、建貝児王をもうけた。
また、山代の玖々麻毛理比売との間に、足鏡別王をもうけた。
また、ある女性との間に、息長田別王をもうけた。

『日本書紀』では日本武尊は、第十一代・垂仁天皇の皇女である両道入姫皇女を娶って、稲依別王、足仲彦天皇(第十四代・仲哀天皇)、布忍入姫命、稚武王をもうけた。
愛媛県の神社
76 :名無しさん[sage]:2020/06/16(火) 23:18:25.48 ID:o8vMShsk
武国凝別皇子 たけくにこりわけのみこ

『日本書紀』や『日本三代実録』では「武国凝別皇子」、他文献では「武国凝別命」とも表記される。
『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績の記載はない。

第12代景行天皇の皇子。

『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と阿倍氏木事の娘の高田媛との間に生まれた皇子とされる。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても同様の記載が見える。

妻・子に関して史書に記載はない。
最古級の竪系図になる園城寺蔵『和気系図』(円珍俗姓系図/円珍系図、承和年間(834年-848年)の書写)では、武国凝別皇子を景行天皇の12男としたうえで、その子について水別命・阿加佐乃別命らの名を載せる。

『日本書紀』では伊予国の御村別(みむらのわけ/みむらわけ)の祖と記されている。
一方『先代旧事本紀』「天皇本紀」では、武国凝別命を筑紫水間君の祖とし、武国皇別命を伊予御城別・添御枝君の祖と記している。

『日本三代実録』貞観8年(866年)10月27日条によれば、武国凝別皇子の後裔を称する讃岐国那珂郡・多度郡の因支首秋主(いなきのおびと あきぬし)ほか同族8人が、「和気公(わけのきみ:和気氏)」姓を賜り改姓したという。
この改姓は貞観9年(867年)2月16日付の「讃岐国司解」によっても知られる。

『和気系図』では武国凝別皇子から御村別・因支首・和気公に続く系図が載せられており、そのうち前述の水別命が伊予の別公の系統、阿加佐乃別命が讃岐の因支首(のち和気公)の系統と見られている。
そして後者の讃岐和気公からは、円珍(智証大師、俗名を和気公広雄)が輩出されている。

伊曽乃神社(西条市)は、武国凝別命を開拓神として奉斎する。
伊予地方に残る伝承では、武国凝別命は平定のため伊予に派遣され、神野郡(のちの新居郡、現在の新居浜市・西条市ほか)に拠点を置いたという。
そしてその子孫は一帯に広がり、「別」の子孫が治めたということから「別子(べっし)」の地名が生まれたとも伝える。
旧神野郡一帯では、武国凝別命の神霊を祀る神社として特に伊曽乃神社(西条市中野、式内名神大社)が知られる。

また風伯神社(西条市朔日市)社伝では、武国凝別命が海上守護のため風神の龍田神(奈良県生駒郡三郷町の龍田大社祭神)を奉仕したのが創祀という。
そのほか飯積神社(愛媛県西条市)では、『和気系図』が武国凝別命の孫とする十城別王を祭神の1柱としている。
愛媛県の神社
77 :名無しさん[sage]:2020/06/16(火) 23:33:39.36 ID:o8vMShsk
十城別王 とおきわけのみこ とをきわけのみこ

伊予別君(いよのわけのきみ)の始祖
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】
【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

父 日本武尊 やまとたけるのみこと
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】

母 吉備穴戸武媛 きびのあなとのたけひめ
【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】

神功皇后自らが新羅征討を決意した際、その軍大将として十城別王が従軍したとの伝承が、長崎の平戸地方に残されている。
対馬にも十城別王を祀る神社があり、帰還したとの伝承もある。
凱旋後、十城別王は平戸の地に留まり、夷敵侵入の監視に当たっていたといい、ここで生涯を終えたとされる。
現在、平戸にある志々伎神社(しじきじんじゃ)には十城別王が祭神として祀られており、陵もある。


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