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名無しさん
伊予国府を探究する
昔の愛媛は、こうじゃったぞなもし。 [無断転載禁止]©2ch.net

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伊予国府を探究する
24 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 01:16:46.29 ID:PmV4i90h
国府・国衙・国庁・・・国府の役所。

国府に勤める役人は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の4等官の下に組織され国司と呼ばれた。紫式部の父は越前守藤原為時、織田信長は上総介。
  
常陸、武蔵のような大国は、特別に大掾、大目と呼ばれた。
国司の地位は相当なもので、鎮守府将軍を務めた平将門の叔父平国香は、常陸の大掾で終わっている。
つまり鎮守府将軍は国司の三等官にすぎないということだ。

天長3年(826)、常陸、上総、上野の三国を親王任国とし、国守を太守と称した。
親王太守は実際には赴任しないので、親王任国では大介がNO1であり、平国香は常陸のNO2であったともいえる。

後に後醍醐天皇は陸奥をも親王任国として、善良親王(後村上天皇)を太守とした。

国司が勤める役所を国庁、役所の建物がある区画を国衙、国庁のある町を国府といった。
しかし、実際はそれぞれ混同して使われている。
伊予国府を探究する
25 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 01:18:01.80 ID:PmV4i90h
総社・惣社・・・国衙の近くに置かれた神社。

国司は定期的に国内の主要な神社を巡拝する義務があったが、 のちに主要な神社を国衙の近くにまとめて祀り、総社と称して巡拝の便ならしめた。

伯耆国の総社の由緒書きに寄れば、和銅二年(709)に当時の伯耆守金上元為が国庁敷地内の神社に、国内主要神社を併せ祀ったとある。
総社の初見である。

総社は、のちに国司と組んで権力を握り、その国の神官の任免、神領の配分などに影響力を及ぼした。
しかし、律令体制の崩壊によって、次第に衰微し、中世に至ると一之宮や、守護大名の影響が強い八幡社に、その地位を奪われていく。
伊予国府を探究する
26 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 01:19:53.69 ID:PmV4i90h
国分寺・国分尼寺・・・諸国に置かれた官営の寺。

聖武天皇の天平13年(741)3月24日、詔して諸国に国分寺、国分尼寺を造る。
国分寺は「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」が正式名称。

大部分は国府の市域の外にほぼ接して置かれた。

国分寺の制度は、中国の唐に倣ったものと思われる。
載初元年(690)則天武后は全国の諸州に大雲経寺を、その子中宗は、神竜元年(705)大唐中興の名を持つ中興寺のちの龍興寺を設置した。
こうした寺院の経営、僧尼の生活は国費でまかなわれた。
我が国の国分寺制度のお手本であろう。
昔の愛媛は、こうじゃったぞなもし。 [無断転載禁止]©2ch.net
257 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 12:52:01.81 ID:PmV4i90h
>>216
「昔の愛媛は、こうじゃったぞなもし。」

「こうじゃ。」=「こうだ。」=「こうである。」
「こうじゃった。」=「こうだった。」=「こうであった。」
「こうじゃったぞ。」=「こうだったぞ。」=「こうであったぞ。」
「こうじゃったぞな。」=「こうだったぞ、なあ。」=「こうであったぞ、のう。」
「こうじゃったぞなもし。」=「こうだったぞ、なあ、そうだろ。」=「こうであったぞ、のう、さようであろう。」
伊予国府を探究する
36 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 23:35:45.88 ID:PmV4i90h
国学(こくがく)とは、律令制において、官人育成のために各国に設置された地方教育機関。
大宰府に設置された府学(ふがく)もほぼ同一のもの。

大宝律令によって設置が定められ、各国の国府に1校の併設が義務付けられた。
入学資格としては郡司の子弟のうち13−16歳の聡明な者とされていたが、学生定員に欠員がある場合は庶民の子弟の入学を許した。
生徒には官人候補者にあたる学生(がくしょう)と医師候補者の医生(いしょう)がおり、その数は国の規模によって違っていた。

大国…学生50名 医生10名
上国…学生40名 医生8名
中国…学生30名 医生6名
下国…学生20名 医生4名

教育課程は中央の大学寮・典薬寮とほぼ同じ内容であったと考えられ、卒業者は試験の結果によっては官人に登用されたり大学寮や典薬寮に入る資格を得ることが出来た。
757年には中央の制度改革に伴って学生が細分化されて講経生・傅生・医生・針生・天文生・陰陽生・暦算生に分かれた。
教官としては各国毎に国博士(くにのはかせ)・国医師(くにのいし)を各1名ずつ置く事が定められていたが、人材難に悩まされて国学が置かれない国や一人の教官が複数国を担当することも珍しくなかった。
各国で制度が整ったのはようやく奈良時代末期になってからであると考えられている。
また、国博士や国医師が史生と同等に扱われて国府の業務に動員されていた記録も存在する。

だが、平安時代に入ると律令制度の崩壊とともに国学も衰退し、11世紀に入る頃までにはほぼ消滅した。
記録上でも平安時代末期の12世紀初期を最後に姿を消し、このころに廃絶されたと考えられている。
伊予国府を探究する
37 :名無しさん[sage]:2020/06/11(木) 23:45:27.45 ID:PmV4i90h
大宰府学校院跡(だざいふがっこういんあと)は、福岡県太宰府市大字観世音寺に所在する大宰府の官人養成機関に関する遺跡。
1970年(昭和45年)に、国の史跡に指定されている。

大宰府学校院は、中央の大学・典薬の両寮、地方の国学に相当するものである。
その成立時期は明らかではないが、律令制度の整備が進むにつれて、学校に相当する機関が設立されたと考えられている。

天応元年(781年)3月の太政官符に「府学校に六国の学生・医生・算生は二百余人あり」と見えるのが文献上の初見史料である。

1969年(昭和44年)から、大宰府史跡調査の一環として発掘調査が行われた。
学校院の中央部から掘立柱建物4軒が検出された。
そのうち2軒は2間×3間の総柱で倉庫風の建物、他の2軒のうち1軒は4間×7間の南北に庇を持つ建物と推定されており、中心的建物と考えられている。
この建物の時期は平安時代前半と推測されている。
学校院の東辺部からは掘っ立て柱建物7軒、南北溝、築地状遺構などが検出されている。
建物は3回建て替えられ、奈良時代の後半頃の建物が一番古い。
南北溝は、平安時代から室町時代にかけて存続しており、築地状遺構も平安時代前半頃の築造と考えられており、学校院の東を区切るものであったと推測されている。
学校院の全体の発掘調査は今後の課題である。


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