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名無しさん
愛媛県大洲市スレッド その2

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愛媛県大洲市スレッド その2
390 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:07:22.49 ID:oAtvAD8y
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
宮司:谷本登位
電話:0893-24-3683
鎮座:大洲市菅田町菅田甲2583
祭礼:3月25日(例大祭)
祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)
神徳:病気平癒、家内安全
由緒:大國主命と共に國を作り堅めるため、伊豫の國に入り
   道後温泉造営後南下し、菅田村西経塚の柊神社・天神社
   (当神社鎮座地)にて、永き年月蒼生の疾病を治療する
   ため薬をうみだし、また祭事を斎行する。
    ある日、命は三町程下った急流を渡って対岸に至らん
   としたがのみこまれ常世國にいってしまう。
    土民達が亡骸を壺に入れ埋葬したと伝えられている。
    天保14年(1844江戸時代)京都の小笠原通當に
   よると「命は神去り給いて、菅田村天神社にて祭りその
   ところは御屋敷跡なり、川向こうの梁瀬山に御陵所有り
   今不入場なり」とあり、全国的にいろいろな説がありま
   すが、いずれにしても当神社が「命」の亡骸の御霊を斎
   祭していると言えます。
愛媛県大洲市スレッド その2
391 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:13:03.38 ID:oAtvAD8y
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
宮司:長田哲明
電話:0893-24-6008
祭礼:4月15日(春祭)、10月15日(例祭)
祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)
HP:http://www.geocities.jp/osukuna/member/member.htm
鎮座:大洲市菅田町大竹乙937−2
由緒:未詳。
愛媛県大洲市スレッド その2
392 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:24:31.04 ID:oAtvAD8y
粟島神社(あわしまじんじゃ)
宮司:森本隆夫
電話:0893-59-1111
鎮座:大洲市北只424
祭礼:1月1日(歳旦祭)、4月上旬(厄除祭)、10月17日(例祭)
祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)、菅原道真命(すがはらみちざねのみこと)
神徳:病気平癒、禁厭(まじない)、医薬、醸造、温泉、国土開発
由緒: 現在の粟島神社は、元は大元神社といいましたが、
   明治44年11月に南山神社に合併合祀されました。
    その名残として、拝殿の屋根の瓦に大元の「大」の
   文字が刻まれて残っています。
    その後、昭和9年11月7日、北只字高瀬に鎮座の
   少彦名神社、北只字城村に鎮座の粟島神社、北只字中
   屋敷に鎮座の天神社、北只字尾崎に鎮座の天神社の四
   社を現在の鎮座地北只字常森に移転合併し、ドルメン
   (巨石)の上に御殿を建立し合祀された神社です。
    社殿は1859年(安政6年)に建立されたと伝え
   られています。
    女性特有の病気平癒にご神徳があります。
愛媛県大洲市スレッド その2
393 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:44:33.52 ID:oAtvAD8y
天神社(てんじんじゃ)
宮司:武智秀夫
電話:0893-52-0367
鎮座:大洲市長浜町黒田
祭礼:10月25日(例祭)
祭神:菅原道真公(すがはらみちざねこう)、少彦名命(すくなひこなのみこと)
境内:恵美須神社(大国主命・事代主命)
由緒: 明治以前の創建であるといい伝えられている。
    地方民の尊敬厚く、明治4年に列格、大正4年
   神饌幣帛料供進神社となる。
愛媛県大洲市スレッド その2
394 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:47:33.39 ID:oAtvAD8y
客神社(きゃくじんじゃ)
宮司:伊達享朝
電話:0893-44-3952
鎮座:大洲市長浜町今坊甲1376番地
祭神:少彦名尊(すくなひこなのみこと)
由緒:未詳。
愛媛県大洲市スレッド その2
395 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 20:53:54.64 ID:oAtvAD8y
粟島神社(あわしまじんじゃ)
宮司:宮田昭
電話:0893-34-3283
鎮座:大洲市成能 乙177
祭礼:7月25日(例祭)
祭神:少彦名命(すくなひこなみこと)
由緒:未詳。
愛媛県大洲市スレッド その2
396 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:20:44.75 ID:oAtvAD8y
粟島神己待祓(あわしまじんみまちのはらい)
https://i.imgur.com/n5hBBC4.gif
愛媛県大洲市スレッド その2
397 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:27:53.37 ID:oAtvAD8y
「梁瀬山八合目に少彦名命の神陵がある」(薬学博士木村彦左衛門氏著)
 大洲町から肱川の清流に添ふて遡る事数町にして、翠緑滴るが如き秀麗なる山のあるのに御気附でしゃう、之が梁瀬山でありまして其山腹八合目には医薬造酒の祖神少彦名命の神陵があります。
 少彦名命は神代に産巣日の神の御子として表れ給ひ、天照皇大神の御名により、吾中津國に降られて、大國主命と兄弟となり、此國を造り堅め給ふた誠に有難い神様でありまして、
特に慈悲に冨み給ひ諸民の疾苦を救ふ為めに、始めて医薬禁厭の法を定め給ひ、造酒の道まで御さづけ下さった方であります。
愛媛県大洲市スレッド その2
398 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:34:29.81 ID:oAtvAD8y
「少彦名命についての研究」(薬学博士木村彦左衛門氏著)
 少彦名大國主の両神が國土経営の為めに諸國を遍歴された事は國々の風土記等の示す所であり、吾伊豫の國に表れ給ひ、道後の温泉を修められた事は、伊豫風土記逸文の明治する所でありますが、
此風土記は散逸してしまった只僅かに逸文として其一部が残って居るのでありました、道後以後の命の伊豫國御経営に付ては知る事が出来ませんけれど共、元来両神は同系民族の開発には特に意を用ひ
られた事は勿論であり道後に表れ給ふた両神か同族の非常に多数棲息せしむと認むべき大洲平野に来り給わぬ筈はないのでありまして、風土記文献の缺をおぎなうふが如き傳説が吾大洲地方には廣く
且つ濃厚に残って居るのであります。
 即ち道後温泉御経営後命は南下せられ、終に新谷村都谷に駐れ此平野の経営に従われた、そして同部落に當時湧出して居つた湯本温泉を定め給ひ、神南山に神奈備を定めて祭祀を行わせられ、當時
御使用の薬坩を埋め祭られたのが今の都谷の坩神社であるが、或日命は菅田村宮が瀬の肱川の急流を渡らんとせられた所、其所は甚しく
危険の場所であったので対岸に居た頭に白手拭をつけた老媼が此れを見て、其所は危しと申し上げたのに、命は此を聞き過られ流れに陥り給ひ終に神去りまし、地方民は之をなげき悲み乍ら附近なる
梁瀬山御壷谷に鎮め奉つたのが今の御神陵である、と言ふのであります。
 此時命の御冠は河に逆流して菅田村大字大竹乙丸の河中の岩にかかった、此れが今の冠岩だと言ふのでありまして冠岩には神社が出来て、今でも此前を通行する舟人は必ず一物を投じて禮拝し、
宮が瀬附近では白手拭を着て河に行く事を忌んで居ります。
 斯様な少彦名命の傳説は全國何所に行っても此地方の様に濃厚に残って居る所は無いのであります。
 抑も傳説なるものが其正しきものになると文献乃至歴史に比し優る共劣らぬ価値のあるものであります事は、吾國の上代を知る事の出来る唯一の文献なる古事記日本書記が今より千二三百年前に、
ずっと以前よりの傳説を文章にしたものに過ぎないものであると言ふ事實に徴しても確實に知る事が出来るのでありまして、傳説を否定することは一面吾國の正史をも否定する事になるのであります。
 梁瀬山の神陵は文学博士鳥居龍蔵氏、東京帝國大学し史料編纂官文学博士山本信哉氏早大教授西村眞次氏、内務省神社局考記課大場磐雄氏、樋口清之氏、等の考古学人類学の権威者及び郷土史の
研究家西園寺源透氏、横田傳松氏等によりて詳細に研究せられた結果、少彦名命の御霊の鎮まりし所なりとの結論に一は積極的に一は消極的に到達されたのでありまして、今更之に付して兎や角申述る
必要はないのでありますけれ共一応其然る所以を記述することに致します。
愛媛県大洲市スレッド その2
399 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:38:10.52 ID:oAtvAD8y
 梁瀬山神陵は同山北面の八合目に位置し、丁度大なる地瘤の北方に向かい突出して居る所にあります。
 土地高燥朝日照り夕日入り輝くの美地でありまして、前には冨士山の秀峯を扣へ肱の清流に臨み、絶好の古墳存在地点であります。
 今より数十年前までは高サ一間幅員約三間の圓墳が存して居つた事は、古老の熟知する所でありますが、少彦名の神様が医薬病魔の神なる為めか古より参拝者多く、今より十数年前に非常に参詣人が
多かった時、地域の狭隘を感じ、土ならし工事を行って、をしい事に墳丘の一部を埋没したもので、只今では墳の状態が不明朗となって居りますけれ共、墳丘上には小なる祠を営んで居りますから其位置は極めて明瞭であります。
 其上其邊一帯に散在する河原石の存在は同墳の葦石の散乱したものに相違なく、特に注意すべきは今より約二十年前に其附近で拾得せられたる碧玉岩製の極めて小型の管玉の存在することであります。
 斯様な管玉は余程古式の古墳でなければ出ないものであり特に考古学者の鑑定によりますと此玉は出雲玉造部の製作にかかるものだそふであります。
 斯様に貴重な玉を帯びる神は出雲系の神々の中でも余程高貴の方であることは想像に堅くないのでありまして、古墳の型式と言ひ出土の遺物と言ひ此古墳が傳説の如く少彦名の命の神陵なる事は一点の疑ひも無ひものであります。
愛媛県大洲市スレッド その2
400 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:40:49.58 ID:oAtvAD8y
 大洲盆地を巡る四方の山々には巨石を以て築造したる古代文化の遺蹟があります。
 此遺蹟は高山、梁瀬山、神南山、五郎、紅葉山、等の諸山にあるのでありまして其個所五十に余り、個々の遺蹟の立派さに於いても亦其総数に於いても断然全國無比であり、只今迄日本一と見られて
居つた大和の國三輪山に存する遺蹟の如きは其状況が此遺蹟に酷似して居るとは言へ其雄大さに於いては足許にも寄り附けない程貧弱なものであります。
 此巨石遺蹟なるものは学術的に申しますと新石器時代の終わり頃から原始時代の始めにかけて地中海に巨大なる石玩んで種々の建造物を造る風習が起こったのに初つたものでありまして、此風習が
漸時東方に移動して亜細亜大陸に及び朝鮮半島より我國に渡来したもので此風を輸入した人々は當時大陸と最も交渉の深かった出雲民族であり其築造の目的は専ら神を祭る為であったそうであります。
 夫れ故に此種の遺蹟の存する所は、多少の例外は勿論ありませうけれ共、慨して出雲民族の活躍したるところと承知して大差ないこととなり、其遺蹟の大きければ大きいほど、同民族の多数に居住
した事を示し、又有力なる同形の神により支配させられたと考えて差し支えないのであります。
 前述の只今迄日本一と考へられて居た三輪山の遺蹟が、出雲系のファイ表たる少彦名、大國主の二神の内の大國主の命の御魂の鎮まれる遺蹟である事を考え合しても、此点思央に過るものがある次第であります。
 吾喜多郡の巨石遺蹟は日本第一は愚か高山の立石の如きは實に東洋一である事は、其学の大家鳥居博士によって折紙つけられて居るのでありまして、此地方は當時如何に多数の同系民族の居住せしめたか
を思わしめ、又此等多数の民を開発する為には如何に偉大なる勢力ある神を要せしかは想像に難くない譯であり、少なくとも遺蹟物等より見て三輪遺蹟の主体大國主に比して劣らない神様が居られたであろうと考へさせられます。
 出雲系統を代表する神々は申すまでもなく少彦名、大國主の二神でありまして、三輪が大國主命の遺蹟でありとすれば此所の遺蹟は傳説の如く、少彦名命の御遺蹟なりとするを至當だと信ずるものであります。
愛媛県大洲市スレッド その2
401 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:42:24.75 ID:oAtvAD8y
 古来神様の御昇天の場所、功績を胎された場所等は、神奈備、神南備、神南等の漢字を當てて居るカンナビなるものがあった事は出雲國神賀詞にもみえて居り其語は神霊の鎮ままれる場所の謂であります。
 即ち大國主命の御魂は三輪の神奈備に、事代主命は宇奈堤の神奈備に、阿遲高彦根命は葛木鴨の神奈備に、賀夜奈流美命は飛鳥の神奈備に鎮まりまして居るのであります。
 吾大洲地方の神南備は即ち神商山でありまして、前述の事實、傳説より考えて少彦名命の夫れに相違いないことは疑う余地のないものがあります、相対する梁瀬山に神陵あり此山に神奈備を設けたと考えるのは無理のない見方であるのであります。
愛媛県大洲市スレッド その2
402 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 21:46:55.51 ID:oAtvAD8y
 少彦名の命は國土経営の為めに、諸國を遍歴さられたものでありまして、同族即ち出雲系統民族の居住の場所には特に御留意のあった事は申すまでもない事であります。
 前掲伊豫風土記の示す如く少彦名命が道後平野に来られた以上其附近にある大洲盆地に、若し同族の集団ありとすれば此地へ来られない譯は無い筈であります。
 少彦名命の住居を定められたと傳へらるる新谷村都谷には、其時代住民の使用せりと解せらるる弥生史式土器及び此れに伴ふを常とする石器が発見されました。
 又神南備山の北麓一帯の高台、大洲町裏の花瀬山一帯からも、同様のものが出土致します。
 けれ共其量は余り多く御座いませずして、當地存在の巨石遺蹟は甚だしく廣大であり、之等を築造するには、余程多数の人を要すべきに想到して、幾分不満足を感して居りました所、此程大洲村徳の森
に於いて、命が平野の状態を眺めらるる為に、常に御登りになったと傳へらるる、俗称尊の森「ミコトノモリ」と称する小丘上にて驚くべき廣大なる遺物包含層を発見しました。
 遺物包含層とは上代の民族が己の住居の近傍に残した現今のはきだめの様のものでありまして、其状態により當時の民族の種類、集団の大小及び其習慣までも知る事を得る、学術上非常に重要なる物
でありまして、若し此れが海岸近くにあれば當然貝塚となる筈のものであります。
 徳の森の包含層は實に廣大なものでありまして、余程多数の民族の集団の遺蹟たるを確認し得るばかりでなく、出土の土器の文様型式などにより夫れが出雲民族の残せしものであることを示すものであります。
 此れによって大洲盆地には上代出雲民族の大集団が居つた事は明となりました。
 従って少彦名命の南下は至極當然だと言ふ事になるのであります。
以上の事實と、性格なりと信せらるる傳説とを綜合して見ますと、大体下記の通りの結論に到達するものと存じます。
 少彦名命は國土経営の為めに諸國を遍歴して(記・紀)終に伊豫の國に表れ給ひ、道後温泉を定め給ひ、(伊豫風土記)次で同族の多数に住居せる大洲盆地に来住せられ、此平野の開発の途中
神去りませしものにして、其神陵は梁瀬山御陵壷谷に築かれ、神南山に其神南備をもうけられたものであります。
 少彦名の神様は医薬造酒の神であるばかりでなく實に吾国土経営の神様でありまして神代市場重要の位置を占めらるる方であります。
 かかるが故に國家は各植民地の帰越を知らしむるが為に官幣大社を建造して此所に大國主少彦名の両神を鎮め祭るのを例として居ります。
 又斯様に有りがたい神であるが故に、内地に於いても両神を御祭りする官國幣社は余程多数に上って居り、又大國主命のみを御祭りする御宮も沢山にあるのでありますが、何故か少彦名命のみを祭神と
する官國幣社は實に一社もないのでありまして、誠に恐多い事だと存じます。
 夫れで國家は何れにか神社を造営して此神の御神徳を顕彰し奉るべきである事は自明の理であります。
 梁瀬山は唯一の少彦名命御陵慕傳説地でありまして、殊に其確實性は以上記載の如くでありますが故に、若し國家にして少彦名命の為めに社殿を造営するとせば其場所は梁瀬山を措いて他にない事は申すまでもありません。
愛媛県大洲市スレッド その2
403 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 22:03:48.25 ID:oAtvAD8y
 二神は、道前道後方面の経過綸を了り、尋で喜多平野の開拓に従事せられたるものの如し、而して其居處は一定せず、處々轉々したるは見易きの理なり。
 喜多郡内ノ子町字植松に、少神を祭れる植松神社あり、社下半町の處に平地あり、茲に古墳ありて(二十許前に除かる)其傍らに太夫屋敷と云ふ處あり、少神最初の居館と傳ふ、神去後其霊を祀りりて天神と称す。
 之に奉祀する神主が其館阯に住せしに依り、之を神主屋敷と云ふ、此地は古来無年貢なりしと云ふ。
天神村大字平岡字岡に、少神を祭れル神祀あり此祀地亦少神の居館と言ふ、
今の村祀岡森神社是也新谷町字都谷を館阯と云ひ傳ふ、此地に湯ノ本、湯尻、ムロガ谷、おおなる、オガセ、一ノ前、拝ノ谷などのほのぎあり、神にゆかりのある處と云うふ、又見返天神社ありて少神を祭る、
又壺神神社あり、埋めたる坩を以て神体に代ふ、此坩は少神が薬を貯へ置、蒼生の病を療するに供したるものと云へり、昭和二年十一月一日、里人は此處を堀りて素焼の坩(土師部(はじべ)土器と見ゆ)
一個を得たり、其翌日余は山本博士と共に、大洲町に於て之を實見したり。
 菅田村字経塚に少神を祭れる天神社あり、是れ最後の館居にして、就中長く居たまひし處と云ふ、神代巻秀信政傳(京都小笠原通當著 天保十四年刊行)に曰く
 少彦名尊・・・・菅田村ニ天神宮ト祭リテ其所ニ御屋敷跡アリ。
大洲随筆(城戸正竦の著 嘉永比の人)に曰く
 少彦名陵・・・・菅田村西(経塚)と言ふ山上にまします・・・・・其後御霊を齋祭りて天神宮と崇む、即ち菅田の天神社也。
 此経塚の地は、根太山脚の突出したる最端の丘陵なり、土地高燥にして肱川の清流に臨み、右方冨士山と梁瀬山に対し、後方神南山の高峰を負ひ、展望絶佳頗る形勝の境なり、之を少神の館居といふは
最も適當するものに似たり、尚其上三町にして二神を祭れる郷社あり、又それより五町上りたる山腹に、少神を祀れる柊神社あり、此地は少神が祭事を行はれし處とて、土人は今に神聖地として崇敬措かず
(柊の古木あるを以て柊神社と云うふ)某書に菅田は往古過陀と書し、少神が経過したまふによりて名くとの説あるも、附曾にして取るに足らず、管見に依れば、太古菅草の繁茂せる沼澤なりしならん、
それを神が干拓して良田となしたるものとおぼゆ、大洲随筆に曰く、昔少彦名命、大巳貴命と共に、天が下を造り堅め給ふ時、神南山を定んとしていたはり(病のこと)つかせ給ふ云々、這は神南山を
中心として、其周囲の郷里を治定するの意なるべし、それかあらぬか、前記の植松、高岡、都谷、経塚の外に、内ノ子の上山、徳の森の中山、成能の粟島、松尾の上天神、北只の高瀬及粟島、田ノ口の天神
(今菅公を祭る)も皆少神の遺跡として神社を置けり、此神社の配置に依りて考ふるに、随筆の説は妥當なるに似たり。
 要するに、少神及大汝の二神が、神南山を中心として喜多平野を開きたることは、巨石郡の多きと、二神を祀れる神社が地方に夥しきとに対照しても、明らかなりと云ふを得べきなり、二神特に少神は、
後に経塚を本居として、四方経営に活動せられつつありしが、一日居館より約三町を距る宮が瀬(肱川の渡場浅水なるも急流也)を歩渉ありし時、誤って水に溺れて神去りたまふ、文政八年二宮和泉口上之覚に曰く
 川中場迄御渉リノ時、菅田河辺ニ老母出居候テ見受候所、至テ小キ御方ト見晴、特ニ荒瀬ニテ中々御渉被成候儀危シト声ヲ掛ク、夫ヨリ後ヘ御返シ、被成候思召ニテ御向替リ否ニ御流被成候。
 菅田地方の古老の口碑に曰く
 少神は至て小さき御方也、大汝は之を袂に入れて旅行せられき、されど大汝は大兵にして魯鈍、少神は矮小にして怜悧なり、一日少神一巳にて宮が瀬を渉り給ふ時、川に白手拭を被りたる老媼あり、
之を見てこそは急流にして危険なりと注意を與ふると同時に、少神は溺死したまえり、其字媼がしろ手拭をかぶり居たるに因み、以来此川に来る者、白手拭を着くるを忌む、もし之を犯せば、必ず災あり云々。
愛媛県大洲市スレッド その2
404 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 22:27:44.46 ID:oAtvAD8y
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愛媛県大洲市スレッド その2
405 :名無しさん[sage]:2019/01/06(日) 22:30:39.68 ID:oAtvAD8y
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