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名無しさん
【愛媛県】今治市総合スレッド☆18【歌仙村return】

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【愛媛県】今治市総合スレッド☆18【歌仙村return】
550 :名無しさん[sage]:2018/10/28(日) 12:23:04.35 ID:Ju95d/Hg
北条玉川線は、大正一二年(一九二三)四月一日に認定された一般県道河野今治線及び正岡北条線を母体としている。
この路線は北条と菊間や今治を結ぶ道路として、かつては牛馬安全の「奈良原参り」や菊間歌仙の「お滝参り」に、牛馬を伴った農民が往来していたが、農業の機械化で牛馬の姿が消え、この習俗もすたれてしまった。
北条市と越智郡菊間町の境にある峠は、上り下りが死ぬほど苦しい難所であったことから「死入道峠」と呼ばれていたが、現在では「笹ヶ峠」と地形図に記されている。
北条玉川線は、以前は一般県道三芳北条線と称されていたものの西半分である。
東半分は現在一般県道東予玉川線として認定されており、鈍川温泉や玉川ダムに通ずる道路となっている。
また、東予玉川線は、明治から大正にかけて、黒谷(東予市)や上朝倉(朝倉村)の渡海屋(岡渡海ともいう)が、毎日馬車や荷車をひいて、今治方面へ買い出しに行ききした道でもある。
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551 :名無しさん[sage]:2018/10/28(日) 16:44:09.23 ID:Ju95d/Hg
楢原山(奈良原山とも書く)は、かつては山頂に祭られている奈良原神社が牛馬の守護神であるという信仰が強かったため、旧暦の丑や午の日には牛馬を引く参詣人が多く行き来した。
現在はハイキングの適地として、今治方面からは鈍川下木地コース・上木地コース・竜岡中村コース・カ石コースなど、かつての参道がハイキングコースとなっている。
この他、北条市猿川や松山市湯之谷からのコースもある。
鈍川側の参道には南朝ゆかりの伝説に関連する「千疋のサクラ」(国指定名勝)と称される山桜の老木林の名所があった。
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553 :名無しさん[sage]:2018/10/28(日) 17:31:37.80 ID:Ju95d/Hg
大正一三年二月に伊予桜井から今治まで開通した讃予線は、同年一二月には大井(昭和三〇年大西町の発足により大西駅と改称)まで延び、翌一四年六月には菊間に達し、伊予北条へは大正一五年三月に到達している。

普通ならば今治から大井へ直通するのが常識であるが、当時の波止浜は塩田による財をなす者が多く、大正二年には四国鉄道速成同盟を組織して四国鉄道鰍創立し、予讃鉄道私設認可の指令を得て、測量に着手した。
第一期工事として松山・多度津間の測定を終了し、株式の募集を行い着々と準備を整えていた。ところが大正三年六月、第一次世界大戦が勃発し、せっかくの計画はやむなく中止の憂き目をみることとなった。
この四国鉄道鰍フ創設の中心をなしたのが波止浜の財界であり、それだけに政治力も強く、波止浜迂回となった。しかし、当時としては国鉄にも一つの条件があった。それは路線となる波方村の樋口と大井村の九王が同意協力するということであった。
波方村は承認の条件として波止浜に対して駅の位置についての申し入れができるのに、何ら要望もせず波止浜財界の思い通りに駅の位置が決められた。
つまり、当時の波止浜は、その生命ともいうべき塩田を横切らせたくなかった。そのため波止浜の中心地からも波方の中心地からも離れた所に波止浜駅は決定されたのである。
結局は塩田の犠牲をさけたため波止浜駅はホーム自体にカーブがあり、見透しが悪く、加えて上り列車は発車直後に勾配にさしかかるという悪条件下となった。

なお、波方村は、鉄道が走っていながら住民は大井駅か波止浜駅まで行かねばならない不便をこの後三三年間も続けた。
波方駅は昭和二八年に松山・今治間にディーゼル車が運転され始めたのを機会に、今治商工会議所の後援を得て、昭和三五年に樋口に無人駅として設置されたのである。
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554 :名無しさん[sage]:2018/10/28(日) 17:38:27.16 ID:Ju95d/Hg
大正一四年(一九二五)六月、待望の鉄道が菊間に達した。
その喜びを
一、日に進み行く文明の 恵を受けて鉄道は 菊間の里に及びたり げにことしげき人々の 通うも安し西東
二、菊間瓦の名も高く 津々浦々にきこゆれば 遠き近きの隔てなく もとめて来る人々に わかつもやすし汽車の便
三、歌仙の滝や霧合の滝古き名所あととめて 遙々といしそのかみの おちかたびとの汗のあと しのぶも涼し汽車の旅
(津田謄三作詞柚山忠祐作曲)とうたっている。

讃予線の菊間駅開業により、菊間駅は駅と港湾が至近距離にあり、四国内の鉄道用燃料石炭の陸揚地に最適の地として貯炭場が設置された。
貯炭場面積は一四〇〇平方mで貯炭能力三〇〇〇トンであった。
九州宮尾炭を伊予石炭合資会社より現物購入し、後に松山機関区へ毎月一〇〇〇〜一五〇〇トン、西条機関区へ毎月八〇〇トンを配給した。
鉄道開通による町民の恩恵はひとり交通面だけでなく、従来、地場産業である菊間瓦の販売に海上輸送を担当した海運業者が、貯炭場の開設に伴い石炭輸送の大型船に転向し、海運業が一大飛躍したことである。
貨物自動車もなかった当時、鉄道輸送による菊間瓦の販路の拡張もまた大きかった。

その後、昭和一〇年、鉄道省は西四国に直営の中四国連絡航路を計画した。
その航路として菊間〜仁方が内定したという新聞報道に全町民は喜んだ。
しかし、その後の松山・今治の誘致運動に破れたのと戦時体制突入により、この計画は延び、戦後二一年になって堀江〜仁方航路として営業を開始した(昭和五七年廃止)。
この時、航路開設後にそなえて旅館の営業許可を受けた家が多く、町の規模や地理的位置の割には旅館が二〇軒(昭和五八年)と比較的多い。

なお、菊間町内の鉄道路線延長は九一二六mであるが、けわしい地勢のため一〇のトンネルを掘っている。予讃本線には全部で五一のトンネルがあるが、そのうち約二〇%が菊間町にあることになる。
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556 :名無しさん[sage]:2018/10/28(日) 19:00:44.51 ID:Ju95d/Hg
今治地方の現在の国道や主要県道は、藩政時代の主要街道を増幅したり、部分的に路線を変更したもので概略のコースはあまり変わらない。

当地方には明治五年(一八七二)に三輛の人力車が導入され、同三六年には乗合馬車が出現した。
明治末期には自転車ブームがみられ、貨物輸送が人から自転車・馬車にとって代わられた。

貨物輸送にとって乗合馬車の出現は画期的であった。
明治三六年に柳社が導入した乗合馬車(盛況時には五台)は駐車場を柳町(現在の旭町一丁目)におき、周桑郡三芳方面に運転をはじめた。
その後、明治四四年末には、今治町に五台、日吉村に三台、周桑郡三津屋行き四台、越智郡竜岡方面行き二台ができ、駐車場は呑吐樋(ドンドビ)にあった。
また、別宮に駐車場をおいて、菊間行が四台、時には松山方面へ運転するものが出来、桜井や菊間にも営業所ができた。

馬車は六人乗りで鉄輪であって(後大正年間に入るとゴム輪も出現した)哀調のラッパで乗客を呼んだ。

国鉄予讃線の西進開通とバス事業の発展にともない、漸次運転範囲をせばめ、大正一四年菊間駅の開通により、竜岡行のみの一台となったが、これも翌一五年鈍川行自動車の開通で姿を消した。


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