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357 :名無しさん[sage]:2018/10/22(月) 22:30:34.71 ID:B3zD/W1v - 《朝鮮半島における我が国の歴史》
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。【新羅本紀】 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400m、一千里は400km)【新羅本紀】 59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。【新羅本紀】 73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。【新羅本紀】 121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。【新羅本紀】 123年 春三月に倭国と講和した。【新羅本紀】 158年 倭人が交際のために訪れた。【新羅本紀】 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)【新羅本紀】 193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。【新羅本紀】 208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。【新羅本紀】 232年 夏四月に倭人が金城を包囲。【新羅本紀】 233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。【新羅本紀】 249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。【新羅本紀】 289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。【新羅本紀】 292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。【新羅本紀】 294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。【新羅本紀】 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。 王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。【新羅本紀】 300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。【新羅本紀】 312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿■の急利の娘を倭国に送った。【新羅本紀】 344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。【新羅本紀】 345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。【新羅本紀】 346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。【新羅本紀】 364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【新羅本紀】 391年 倭が海を渡り、百残(百済)、■■新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】 393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。 397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【百済本紀】 399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】 400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。【広開土王碑】 405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【百済本紀】 405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【新羅本紀】 407年 倭人が東部と南部へ侵入。【新羅本紀】 407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】
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