- ひどい駄作で失望したSF小説と映画 未来け132
597 :名無しは無慈悲な夜の女王[sage]:2018/04/17(火) 20:25:57.35 ID:41A+vprD - 拾ってきた
高畑監督は「火垂るの墓」の制作に入る前に、清太という少年と現代の少年たちが似ているということを指摘している。 この家庭を営む兄妹という点から考えて、その類似はどんなところにあるのだろうか? 「清太と節子は”家庭生活”には成功するけれど、”社会生活”に失敗するんですね。 いや、失敗するのじゃなくて、徹底して社会生活を拒否するわけです。 社会生活ぬきの家庭を築きたかった。まわりの大人たちは冷たかったかもしれない。 しかし、清太の方も人とのつながりを積極的に求めるどころか、次々とその機会を捨てていきます。 お向かいの娘に、『うちらも2階の教室やからけえへん?』と誘われて『ぼくらあとでいきますさかい』と断り、 学校へも行かず、先生にも相談しない、置かしてもらった親類の未亡人はいやみを次々いい放つけれど、あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。 清太はそれを我慢しない。壕に移り住むことを決断して清太はいいます。『ここやったら誰もけえへんし、節子とふたりだけで好きに出来るよ。』 そして無心に”純粋の家庭”を築こうとする。そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。 心情的にはべつに現代の青少年たちとだけ類似があるのじゃないと思うんです。 マイホームとか核家族とか、個室やオートバイを子どもに与えるとか、おとなもみんな清太になりたがり、自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。 社会生活はわずらわしいことばかり、出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。それがある程度可能なんですね。 ウォークマン、ステレオ、パソコン、みんなそれを象徴しているような気がします。清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。 http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070816/hotaru
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