- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
539 :人間七七四年[sage]:2021/04/10(土) 05:12:51.67 ID:t3RYvGHU - 記録によると、前田利家死後の時系列並べるとこんな感じ
3月3日、前田利家死去、その後7将が奉行追い回す騒動が発生、最終的に石田は徳川屋敷に。 3月11日、石田光成、伏見城下の徳川屋敷「ここ重要、あくまで伏見城下の徳川屋敷」をでて佐和山に 3月13日、伏見城の城門を口実付けて開けさせ、その後には徳川家の大部隊が当然の如く押し入り。 という事で、前田利家が死んで僅か10日ほどで伏見城は徳川軍に占領された。 何ていうか実に見事、前田利家の死から7将襲撃事件、三成が徳川屋敷に逃げ込み佐和山に去る。 そして僅か数日で徳川軍がさも当然の様に伏見城に押し入る。 盗将大権現のパクリ術でした。
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559 :人間七七四年[sage]:2021/04/10(土) 16:58:41.67 ID:t3RYvGHU - >>547
その辺に異説が有る事は知ってますよ、あと日付けは閏の三月です。 只、この時期の伏見城代は前田玄以と長束正家だった事も間違いないですよね。 前田利家の死後、未だ葬式も行われてない状況で7将襲撃事件が起こり、豊臣家の奉行を散々に 怖がらせ、怯えさせて石田が佐和山に去ったと。 その直後に、さも当然みたいに徳川軍が伏見の城門を開けさせ押し通ったって事ですもん。 実に見事な心理戦でして、この流れで徳川に抗議とか出来ないでしょ、徳川に逆らったら現職の奉行すら 辞職して自分の領地に追い払われるって実例見せられた後で。 でね、これが僅かひと月前なら如何だったかという事ですよ、前田利家の生前なら強引に徳川の部隊が 伏見に押し入ろうとしたら其の儘戦闘が始まり開戦でしょ。 相手が動揺してる隙に、既成事実固めて済んだ後で抗議しても無視するって見事な心理戦。 確かに徳川家康がずば抜けた才能の持ち主なのは本当だと思います。
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573 :人間七七四年[sage]:2021/04/10(土) 22:40:13.50 ID:t3RYvGHU - >>561
家康が自分の領地から持って来た増援を、勝手に伏見に入れた事に一番文句言いそうなのが 奉行だからですよ。 だからあらかじめ、伏見城占拠に文句言いそうな奴を7将襲撃事件って形で始末した様に見えます。 表向きは徳川と関係無い騒ぎですが、伏見城乗っ取り作戦の一部とも解釈可能でしょ。 家康は本能寺の変の後、織田の領地の甲斐信濃を占領しましたが表向きは織田家が封じた大名を 直接攻めた訳では有りません。 川尻や森なんかは表向きは一揆のせいで領地放棄した事に成ってます。 でも、普通に考えれば黒幕は家康でしょ。それに似てる流れだよ。
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