- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
542 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 06:29:16.68 ID:wvQ5AsKS - >>536
三河物語「諸将が心がわりして我も我もと申し訳をして、後には三成一人に掛けて、後には寄り合って三成に腹を切らせようとするところ」 慶長年中卜斎記「近頃、朝鮮出兵勢の七人衆が三成の成敗を嘆願した。」 看羊録「清正らが武装兵を率いて伏見に上り、三成を攻めようとした。」 北野社家日記「大坂・伏見以外さハき申、石田治部殿を福嶋大夫殿・摂州なと其外大名衆御申合候て、はら御きらセ候ハん由風聞申」 義演准后日記「石田三成は近江佐和山の城へ隠居、大名十人であろうか申し合い訴訟したそうだ。内府は異を唱えたそうだ」 その他細川忠興軍功記、浅野長政公伝等。 そもそも、この時期の三月及び閏三月は大坂、伏見に「雑説」があった(内容不明) そして、利家が死ぬや否や七将は大坂の三成を襲撃した。 これが単純な訴訟じゃ無いことは以上の史料からも明らかだが、重要なのは七将は三成襲撃部隊と家康への嘆願部隊に分かれて作戦を実行した(これは閏三月の幸長書状から分かる) つまり実行部隊は三成を捕捉してこれを「切腹」される気でいた。その為に軍勢を集めて大坂を攻撃、失敗すると伏見にまできた(結果「三成が攻められた」という風聞がたった)。これは明らかに豊臣への反逆なのでこれを「訴訟」に落とし込むべく外交部隊が暗躍し、結果「三成を訴訟した」という風聞ができた。 これが平和的訴訟ならそもそも三成が逃走する事は許される事ではない。また、何故単なる訴訟で三成が伏見の屋敷に逃げ込まねばならないのか、という点もある(伏見には徳川の勢力下にあるので大坂城に籠っても良かったろう) 七将が武力行使を図ったが故に三成は逃げ出した訳で、これは訴訟とは言い難いよ。
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