- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
552 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 12:19:26.45 ID:XQxsEa0G - >>550
何に拘ってるのかわからんけど、 君が七将が単なる訴訟をしたのだと言いたいならまず君が七将は何を訴えたのかについて説明しないといけないと思うけどね。 そもそも、七将が「単なる訴訟」をしたという学者は居なかった気がするけどね。白峰氏が言ってるのは「七将は三成を実力で殺害しようとしたのではなく、三成の住居を武装兵で囲んで死ね死ねと言って切腹させようとした」って事だったはずだし。当時はこれも「訴訟」だったという事を白峰氏は知ってるから七将は訴訟したと言ってるワケ。 現代的な平和訴訟とはまるで違うよ。
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- 武田信玄は過大評価されすぎ
607 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 12:21:06.53 ID:XQxsEa0G - >>595
まぁ信玄って罪人を釜で256してたらしいしなぁ…
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- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
554 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 12:55:43.36 ID:XQxsEa0G - 七将が何を要求したのかは書状とかには残ってないが、故にその内容は推して知れる。
まず七将は行動にあたって浅野幸長が兵を連れて伏見に上洛、委細は長政が口頭で伝えると家康に送ってる。 同時期、三成は大坂を脱出して伏見に着いてる。 これが単純な訴訟ならそもそもどうして三成は大坂を脱したのか?という疑問が出てくる。単に訴えられただけなら大坂を離れる理由は無い。あり得るとしたら家康ら豊臣公儀が召集したというものだがその様な書状が見つかってない。 そして輝元は書状で「増田長盛によると三成が身を引くしか無い」と送ってる。これは非常に重要で、 七将が要求したのはかなり重い内容、要は死刑だった事が伺える。何故なら長盛はこの後三成と共に篭っていておそらく奉行派の立場にある。それが三成の隠居を最低値としてるのだから、最大値つまり七将の要求は死刑以外無いだろう。 また一次史料が存在しないのも当たり前で、そもそも七将襲撃は起こってない。何故なら七将が大坂の三成屋敷を攻撃しようとしたところそこは既にもぬけのからだったのだ 存在しない者を襲撃は出来ない。三成が屋敷から逃げ出したと知った七将は伏見まで追いかけてきた。 だがその時には家康の預りになっており手出しは出来なかった。
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- 武田信玄は過大評価されすぎ
617 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 17:55:14.91 ID:XQxsEa0G - >>610
諏訪一族と武田一門衆が嫌がったんでしょ。 諏訪からすると征服者の一族に媚を売るなんてやりたくないし(党首が暗殺されてるから尚更) 武田からすると諏訪に乗っ取られるのはごめん。 それで勝頼は諏訪に根を張ることも出来んかった。
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- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
563 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 18:00:08.10 ID:XQxsEa0G - >>557
白峰氏のいう「訴訟」ってのは、 当時の武家社会では対象を武装兵で囲んで自害を強要してこれを成し遂げる ってのも含まれてるって事をまず飲み込まないといけない。 だから白峰氏も北野社家日記は否定してない。 白峰氏が主張しているのは、「七将は三成を武力行使で殺害しようとした」というのではなく、 「七将は三成を切腹を強要するという訴訟で殺害しようとした」ということ。 でないと「なら七将は何を訴えたの?」って疑問にまず答えないといけなくなる。 七将の要求は間違いなく三成の死。
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- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
569 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 19:55:12.43 ID:XQxsEa0G - >>565
七将が具体的に何を要求したのかの史料は無かったはず。 ただ諸々の史料を合わせると七将の要求は三成の死刑で家康裁定後も命を狙ってるから相当根深い。 だから家康が七将に対する譲歩として朝鮮戦役の再査定を認めたとするならそこまでおかしくない。 てかもし七将が単なる訴訟をしたなら三成は訴訟されたら反乱を企んだヤベェ奴(輝元に兵隊を頼んでる)という事になってそれはさすがに可哀想な気が…
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- 秀吉死後の騷動・事件等を考察する
571 :人間七七四年[]:2021/04/10(土) 21:58:10.29 ID:XQxsEa0G - 実際のところ、七将と家康でどんな交渉がされたか詳細な史料が残ってないから真実はわからない(交渉は口頭で行われてる可能性もあるし)
ただ、ある程度の事から想像はできる。 裁定後家康がまず七将に送ったのは三成が佐和山に蟄居になる通達だった(閏三月九日七将宛書状) この事から、朝鮮出兵再査定より三成の去就の方が七将にとっては重要だったと思われる(少なくとも家康はそう考えていたということだろう) 仮に再査定が主眼ならそれが主題になるだろうし。 それにこれは七将が知っていたかは不明だけど、蜂須賀及び黒田が叱責された蔚山城問題には三成は関与してなかったんじゃないかと思われる。確かに三成縁戚の福原が原因ではあるのだが… その再査定と福原の改易は同じく閏三月十九日だが、これを七将の主張を遅ればせながら満たしたのか、譲歩の結果なのか、三成に連座したのかは想像に任せるしか無い。 ただ、七将は諦めてなかったフシがある。 徳川家史料の三河物語では「七将が佐和山の途中で三成を襲う」という情報があったので結城秀康が護衛に付いたとし、 看羊録では「清正は裁定を不服として前田利長を誘い〜」とある。 また、加藤清正と黒田長政が三成を「内府の気持ちが変わった時に備えて」鉄砲隊で追尾したという噂があったりとそんな予感があったのだろう。
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