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人間七七四年
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25

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もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
900 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 00:08:25.58 ID:6Z4dEfgx
山岡兄弟は瀬田橋、明智は坂本、堅田と水上交通の要衝を押さえていたから、ある程度の水上戦力は保持していただろう
にしても早船と水主がそれなりにいて、運行はできる程度
信長の大船は解体されて小舟に作り替えられている
新発見史料も単なる船軍(ふないくさ)としか書いてないはずだ、小競合いである
瀬戸内海や伊勢志摩、松浦とは違う
史料を読もうね
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
919 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 20:52:53.49 ID:6Z4dEfgx
ちゃんと史料を読んで基本を知ろう
晴豊日記などが手元にないから「信長公記」を参照すると、光秀は6月2日に父子を討ち取ると、まずは洛中で落武者狩りをさせている
次いで、光秀本人の発言は「江州の御人数切上り候はん哉」。つまり「御人数」(信長、信忠の軍勢)が京に押し寄せることを案じ、その日中に瀬田へ向かった
ところが山岡兄弟は同心を拒み、瀬田橋と居城を焼き、山中に籠った
困った光秀は足掛かりだけ残し、坂本へ帰る
さて、新発見の山岡系図によると、船戦は秀満と山岡の一戦だが、橋を焼き落としたあとに湖上であった話である
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
921 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 21:01:11.71 ID:6Z4dEfgx
で、ポイント
光秀は信長、信忠の中国遠征軍がほぼ残存しており、弔い合戦にくることを警戒していた
だが実際には指揮系統が損なわれ、組織的な戦闘力は喪失していた
戦場の霧で事実誤認は当然あまたある
さらに船戦については、その前後が不明瞭だが、以下に仮説
光秀は瀬田へ軍を出し、瀬田兄弟に協力を求めたが、断られて瀬田橋を焼かれた
即時の通過は困難と見て、光秀は橋を架けるべく秀満を残して坂本に帰った
その後、架橋作業を妨害すべく、山岡が船をだし、秀満方と交戦した
山岡兄弟も抱えがたしと城を焼いて落ち延びた
光秀主力がいたところで船の数には限りがあり、乗り出せるのは少数
そもそもそんなに船があるなら船で渡ればいいw
史料にもほとんど残らないほどの小競合いだったとしか言えない
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
922 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 21:12:04.49 ID:6Z4dEfgx
>>920
結論も読んでほしいけどね
よく根拠なく光秀は近江平定を目指したと語られるが、二次史料とはいえ光秀は「近江から信長父子所属の軍勢が京に攻め上らないか?」と不安に刈られ、残敵掃討後にすぐ、兵を出している
橋が焼かれると朝廷工作もそこそこにすぐ坂本に入ったのは、来るべき織田軍の来襲に備えてだろう
結果的にはほぼ近江はがら空きになっていくのだが、こういう光秀の当初の懸念に思いを致さないと
秀吉謀叛論のひととかは、人間が完璧な動きをできる、無謬だと勘違いしているから、付け加えておく
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
927 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 22:48:28.90 ID:6Z4dEfgx
>>923
山岡系図の全文が写ってる写真がないので、改めて関係部位を読んでざっくりと訳してみた
「天正年間の夏、明智が信長公を弑逆した。明智弥平次は安土城を奪うために江州勢多橋を渡ろうとしたが、景隆が防戦し、勢田橋を焼き落とし、通らせなかった。弥平次は船に乗って湖上を渡ろうとしたが、景隆が士卒を率いて湖上において弥平次の郎党若干を捕らえて討ち、ついに勢多を渡らせなかった」
このあとは神君伊賀越えの描写。全文がわからないが、みた範囲では瀬田城を焼いた記述はここにはなかった
ただ、原文を読むと「弥平次之郎等若干(ソクバク)打捕之」だから、水軍がどうだのいうほどの、大した戦闘ではないのは明らかだね
また、秀満が先手だっただけなのかもしれないが、近江侵攻に対する光秀の関与がこの史料からだけでは分からない
追記すれば、船戦の前に瀬田橋付近で小競合いがあったようだね
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら? 25
928 :人間七七四年[sage]:2020/10/13(火) 22:58:16.88 ID:6Z4dEfgx
>>926
私も久々に原文を読んだから誤解していたところがあったが、山岡系図では明確に防戦して橋を焼いたところ、さらに秀満が対岸に渡らんと船を出したから船戦(小競合いだけど)になっている
橋を巡る攻防と船戦の間にどれだけ時間があったかは書かれていない
ただ、橋を渡るつもりでいたら焼かれたわけで、船の徴発にかかる時間や坂本周辺から船を回す過程を考えると即日ではないのではないかな?
架橋(おそらく船橋だろうけど、よく知らない)と渡海(船戦)を同時平行で実施していたかもしれないし
もしくは秀満があまりに少数で乗り出したから即日、撃退できたのか


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