- 戦国ちょっと悪い話47
848 :人間七七四年[sage]:2020/02/12(水) 01:56:21.40 ID:4qsmf9PP - 永禄十三年正月より、北条氏康公は越後の止観という僧と、小田原海岸寺も住持を中人として、
上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、 北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。 北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。 この時謙信は 「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と される事に定まった。 先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。 この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。 北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。 この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。 景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。 しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて 成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。 この討ち手もまた長尾小四郎であった。 (松隣夜話) ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。
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