- 戦国ちょっといい話47
502 :人間七七四年[sage]:2020/01/11(土) 13:54:27.89 ID:jm076ULv - この頃、筑前国糟屋郡立花の城主は大友入道宗麟の股肱の臣である、戸次入道道雪であった。
道雪は智勇仁の三徳を兼ねた人物であったので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、千手、筑紫、高橋を 攻めて豊後の屋形の幕下に成した。また肥前国・龍造寺隆信も攻め従え。これにより薩州の島津と九州全体を かけての争いの構図と成った。 しかしながら宗像の大宮司は大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、全羨(陶晴賢)が滅んだ後は 毛利元就に属して大友に従わなかった。 この状況を見て道雪はこのように考えた 「先ず宗像を攻め従わせる事ができれば、龍ヵ岡の城主・杉十郎貫並も、烟の城主・香月七郎経孝も、 山鹿城、花尾城、剣嶽城までも残らず手に入れられるであろう。幸い、近年宗像の当主である氏貞は、 城普請に財を費やし家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも課役をかけて領内衰微し、粮乏しく、 その上名のある老臣武勇の士は、山田の怨霊のため取り殺され(前の当主であった氏男が大内義隆の跡を 追った後、氏男の子女と後妻は陶晴賢の指示などで殺され、怨霊となり宗像家中に祟る)、その身は 博多津・聖福寺の玄蘇和尚を招いて禅法を修し詩歌を事とす。故に家中もその風に靡き、武事を怠っている。 この虚に乗じて宗像を攻め滅ぼすべし!」 こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘といった人々を 始めとして、永禄十年九月に立花を打ち立ち、飯盛山に陣を取った。 宗像氏貞はこれを聞くと、「急ぎ飯盛に向かい彼らを追い返すべし。」と、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、 占部右馬之助氏時、石松但馬守、米田比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして都合二百余騎が 飯盛山に押し寄せた。 この時、敵は先ず許斐の城を攻めて、その後蘿ヵ嶽に寄せんと支度をし、飯盛にて諸卒に兵粮をつかわそうと 野陣をした所であったので、慌て騒ぐ事限りなかった。 宗像勢の中より黒糸縅の鎧を着て、栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置かせ打ち乗った武者が一騎駆け出て、 「吉田勘解由左衛門致晴!」と名乗り真前に進み出て声を懸けた 「日頃立花の人々は、宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ弓矢、何ほどの事があるかと嘲弄されているよし 承り及んでいる。神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ!これ神通の鏑矢なり!」 そう能く引いて放った矢は、真前に進んでいた原田源五郎の胸板を射通し、後ろに控えていた原田源助の 草摺の端まで射通した。 これを軍の始めとして、互いに揉み合って戦ったが、日既に暮れに及んだため、小野和泉守が諸卒に下知して 「日暮れて他領に陣すること不覚なるべし。急ぎ引き取れ。」と、筵内新原を指して引き退き、立花の城へと 帰った。この時宗像勢が討ち取った首級百七十三は蘿ヵ嶽に送られた。 この後は糟屋宗像は折々小勢を出し、年々戦止むこと無かった。しかし元亀半年に両家の家臣共の計らいにより、 氏貞の妹をして立花に嫁がしめ、双方無事と成った。 (宗像軍記) 宗像と戸次道雪勢との戦いについて。
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