- 戦国ちょっと悪い話47
713 :人間七七四年[sage]:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc - 長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を 使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を 賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を 元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。 ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」 と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた 「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」 これを聞いた元親は大いに怒った 「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。 これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」 と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。 信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に 敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。 六月二日、織田信長は明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を 思い、明智に謀反を決意させたのだと言う) (長曾我部譜) いわゆる本能寺四国説ですね
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- 関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part29
704 :人間七七四年[sage]:2020/01/01(水) 13:10:30.33 ID:f2m7axWc - >>703
そこには「個人の感想」以上の根拠がない。
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- 織田信長は過大評価されすぎ part 5
127 :人間七七四年[sage]:2020/01/01(水) 20:38:33.62 ID:f2m7axWc - >>123
>>124 ID変え失敗してますよ
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