- 戦国ちょっと悪い話47
520 :人間七七四年[sage]:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5 - 信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。 そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの 部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。 天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および 今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。 この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと 伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。 信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。 加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、 富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。 これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。 武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。 それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を 担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。 三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で 関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。 織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。 そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、 織田方に捕えられる前に自害した。 彼等の首実検の時、信長はこのように言った。 「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。 こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。 皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」 (関八州古戦録) 関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。
|