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人間七七四年
戦国ちょっといい話47
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part28

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戦国ちょっといい話47
259 :1/2[sage]:2019/10/09(水) 12:53:26.60 ID:KpTeOAT+
臼井城攻防戦

永禄6年の事
総州河西郡臼井の城は千葉介親胤の家老。原上総介胤繁が守っていた。
彼の父治郎座衛門胤高は、豊後守光胤の子で、その前は生実の城に居たが、発性院足利義明に追い落とされ、
弟中無少輔賢胤と共に臼井城へ逃げ籠もり、そのまま現在の上野介に至った。既にかなり長く居城としていた。

そこへ越後勢が押し寄せてきた。上野介はすぐに、千葉、佐倉へ救援を頼んだ。しかし人並み外れて
攻め足の早い輝虎であるので、臼井城を素通りして一気に千葉城へ向かうかもしれず、その時は
こちらが後詰と成る事も考えられ、ともかく攻めと守り両用の構えで待機することとし、とりあえずは
椎津主水正、椎名孫九郎に五百の兵を差し添えて臼井の城に残し、自身は加勢として大和田の砦へ
向かおうとした所、大和田より派手な赤一色の具足を付けた、松田孫太郎秀郷が、手兵百五十余人を
連れて駆けつけた。

この孫太郎は松田筑前守(康定か)の次男で、左衛門佐村秀の叔父にあたり、坂東に隠れない
剛の者で、常に主具足を好んで着け、金の鹿の角を打った兜を用い、数度の合戦で遅れを取ったことがなく、
その働きは「北条家の赤鬼」の異名で恐れられている歴戦の勇士であった。

四月二十日、月のまだ残る早朝の薄明かりの中に法螺貝の音が聞こえ、やがて陣鉦を打ち鳴らし、
上杉勢の攻撃が始まった。この城門へ向かって上がる鬨の声に、城中の武者である
臼井四郎左衛門入道浄三がまず軍配を取った。

この臼井浄三は、千葉より加勢に来た勇士で、最近まで武者修行のため上方に赴き、三好日向守(長逸)
の元にあったが、たまたま下向して臼井城に在り、よく城中の兵を押さえて好機を待った。

寄せ手の二陣は本庄越前守繁長で、第一陣と合流して一挙に城門を抜こうと攻めかかった。
臼井浄三は、頃は良しと弓鉄砲でこれに応戦し、城門をさっと開くと鬨の声を上げて突き出した。
先頭を切ったのは城主上野介の長男・原式部少輔胤成と、高城下総守胤長で、寄せ手の
長尾新五郎、富永主税介らと、たちまち火花を散らす攻め合いとなった。

そこに輝虎の下知で沼田の藤田能登守信吉、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守が加わり、
柵を壊し堀を越えて、外曲輪七、八間ばかりを引き崩して城中に攻め入ろうとした。
これを見た原上総介の家老・佐久間主水正と、赤具足の松田孫太郎が飛び出してこれを支えた。
松田は大長刀を打ち振り、またたく間に沼田衆六、七人をなぎ倒し。今度は樫の棒に持ち替えて
騎馬武者めがけて打ちかかり、散々に暴れまわった。
負けじと寄せ手の本庄越前が横合いから打って出て、松田の仲間の橋本伝左衛門、陰山新四郎といった
歴戦の勇士を討ち取り、残兵を城中へ追い戻した。

そうしている内に曇っていた空より雨が降り始め、夕暮れとともに酷くなったため、寄せ手は一旦引き上げて
陣を張った。その夜は夜通し風雨が強く夜戦はなかったが、夜明けとともに風雨が収まると、上杉勢は
再び鬨の声を発して攻めかけた。しかし臼井浄三は再び音無しの構えでそれに応えさせなかった。
戦国ちょっといい話47
260 :2/2[sage]:2019/10/09(水) 12:55:53.73 ID:KpTeOAT+
輝虎は不審に思い「恥を知る侍も多くいる。城内の人数もそう少ないわけではないのに、
何も反応がないのは昨夕の合戦に疲れたのか、もしくは風雨が気に入らず黙っているのだろうか。」
そう疑問を発した所、海野隼人正が進み出て言った
「城中に臼井入道浄三という軍師が居ると聞いております。何か策が有ってのことではないでしょうか。」
これに輝虎は
「頃を見て打って出るつもりであろうが、空堀に柵を巡らせただけのこのような平城、何するものぞ。
一もみに揉み潰せ!」と下知した。

これを受けて長尾新五郎顕長が馬を乗り回して配下を指揮し、城戸、逆茂木を打ち壊し、えいえいと
喚声を挙げて無理矢理に攻め込み、たちまち敵二百ほどを討ち取った。もう少しで大手が破られそうに
なった時、思いもかけず城壁が崩れ落ち、寄せ手の雑兵八、九十人がその下敷きと成って死んだ。
「さては、やはり策か」と考えた輝虎は、直ぐに引き上げの貝を吹かせて退こうとすると、城中より
松田孫太郎を先頭にどっと騎馬武者が打って出て、上杉勢の背後より討ちかかった。
中でも松田は黒馬に黒地の旗指物、筋金の違い打の馬印を掲げ、より一層真っ赤な具足が目立ち、
赤鬼が暴れこんできたようであった。続いて原式部少輔が、隅赤の指物に十曜紋の旗をなびかせ、
兵四、五百を引き連れ攻め込んできた。

上杉勢の中からは北条丹後守(高広)が引き換えして踏みとどまり、これを迎え撃った。続いて
新発田因幡守(重家)も、金の福禄寿の前立の兜に白綾の幌をかけ、手兵七百騎を円陣に作り、
追撃してくる臼井勢を斜めに横切って後続を断った上、大手の城戸口を破る構えを見せた。
これを知った赤鬼松田は、原式部少輔と分かれて後退し、新発田の七百騎に手勢とともに突っ込んだ。
しかし大勢に押されて百余人を討たれ、やむなく原の勢とともに城中へ入った。

ここで、今が引き上げ時と見た輝虎は、これ以上戦わず上州へ帰陣した。

この時、赤鬼松田孫太郎の敵ながら衆に優れた見事な働きを、輝虎は高台から見て感じ入った。
北条家に於いてもこれを知り、氏政より感状が与えられ、相州田島に二千貫の加増が有った。

(関八州古戦録)
戦国ちょっといい話47
262 :人間七七四年[sage]:2019/10/09(水) 15:11:55.95 ID:KpTeOAT+
>>261
手元にある関八州古戦録には「臼井」に成ってますね。臼井(白井)と書いておくべきだったか
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part28
26 :人間七七四年[sage]:2019/10/09(水) 15:15:30.72 ID:KpTeOAT+
恩賞以上に所領安堵を為してくれることが重要


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