- 戦国ちょっと悪い話47
175 :人間七七四年[sage]:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+ - 元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。 「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負 けになった」との批判があった。 その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と 養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113) ――『北条記』 天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。 家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。 皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、 敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。 たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上 杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、 いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪 くは申すまい。 すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを 長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、 長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。 輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると 同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの である」と信玄公は仰せられたのである。 ――『甲陽軍鑑』
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