- 戦国ちょっといい話46
680 :人間七七四年[sage]:2019/02/16(土) 18:06:07.30 ID:SKjhiH3w - (『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)
秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた。かの地は五畿内の中央にあり、東は大和、西は摂津、南は 和泉、北は山城、四方は広大にしてその間は高くそびえ立つ山岳である。 麓を廻る大河は淀川の末に大和川の流れが合わさって、その水はすなわち海に入る。大船が日々着岸 すること幾千万艘と知らず。大坂は平安城(京都)から10余里、南方の平陸には天王寺と住吉、堺 津へは3里余り。いずれも町店屋の辻小路が立ち続き、大坂の山下をなす。五畿内をもって、かの地 の城主の警固のために外構をなすものである。 故に大和には筒井順慶、和泉には中村孫平次(一氏)、摂津には三好孫七郎秀次(豊臣秀次)、茨木 には中川藤兵衛尉秀政、山城槇島には一柳市助直末がいる。 洛中洛外の成敗を司る者は、半夢斎玄以(前田玄以)である。玄以は若年より知恵は深く私曲がない。 秀吉はこれを知っているので玄以を奉行に定めたのである(従若年知恵深而無私曲。秀吉依知之定奉 行者也)。もしまた法度にないような理非を決断できないことがあれば、秀吉が糾明するものである。 現在行われている大坂の普請は、まず天守の土台である。その高さは莫大にして四方八角は白壁翠屏 の如し。良匠が墨縄をもって斧斤を巡らせても、これ以上のものは作れない。 30余ヶ国の人数が近国遠郷より散らばって、陸地船路より大石小石を集めて来る様子は、蟻の群れ が蟻塚に入っていくようだ。まことに古今奇絶の大功なり。皆人はただ耳目を驚かせるばかりである。 諸国の城持衆や大名小名も尽く大坂にいるのである。人々が築地を構えて軒を連ね、門戸を並べてい ることは、奇麗荘厳を尽くすものなり。 ――『天正記(柴田退治記)』
|
|