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760 :人間七七四年[sage]:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+ - 1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。 当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。 しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。 これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。 岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。 元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。 盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。 「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。 この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、 東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。 天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、 湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。 父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。
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