- 関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part10
22 :人間七七四年[sage]:2017/12/07(木) 10:06:08.95 ID:cFLNsUqy - 岐阜籠城策については秀信は大垣に移動したほうがよいという案もあるが、
島津義弘1000が秀信の補佐と援軍として岐阜に詰めるだけでも効果ありそうなかんじがするがどうだろうか? 島津義弘というそれなりの格のある援将が来ている以上、さすがに秀信でも 軍議も開かずに方針決定するとも思えない。 そして軍議を開けば義弘は「兵数不利ゆえ籠城して味方の後詰を待つべし。 しかし敵に隙あらば夜襲を仕掛けるべし」あたりを豊久の通訳付きで述べるんじゃないだろうか? 基本籠城、機を見た夜襲、なら秀信も同意しそうだがどうだろう? 問題点としては島津が来援するまではあまり積極的に籠城準備しそうにないこと。 島津義弘に土地勘がまったくないこと。 また、秀信大垣移動案なら、美濃方面司令部を大垣に置くので秀信にも幕僚として 大垣に詰めていただきたい、あたりが自然で無難じゃないかな? 岐阜城後詰決戦の前提としては岐阜城が落ちない方策をまず考えることでしょう。
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23 :人間七七四年[sage]:2017/12/07(木) 10:14:51.82 ID:cFLNsUqy - 一応前スレの岐阜城後詰決戦の叩き台のプランを貼っておきます。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。 以下コピペ。 403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R >>374 長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。 そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。 織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。 そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。 痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。 そして武田軍は大敗。 これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。 宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。 岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。 部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。 そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。 しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。 甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。 東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。 そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。 岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。
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31 :人間七七四年[sage]:2017/12/07(木) 23:19:43.03 ID:cFLNsUqy - >>29
そのあたりは東軍先発隊が、「岐阜城、秀信、島津ら約7000が籠もっている模様」との 物見報告に際しどう動くかという部分もあるし、史実での守備兵2000〜3000と比べれば 確実に守備兵数は多い。 1、史実通り木曽川渡河し岐阜城攻城、あるいは包囲。 2、岐阜城は守りが固いとみて攻撃先を犬山もしくは大垣に変更する 3、大垣、岐阜、犬山いずれも容易く落とせるとは思えない、家康の指示もしくは来援を待つ 4、同上、美濃の西軍の守りは固い、美濃よりも伊勢の東軍の後詰を優先する 東軍先発隊がいずれの選択を選ぶか。 渡河迎撃は8月22日時点の美濃の西軍兵力では有効に機能しない。 西軍として難しいのは、東軍先発隊に清洲に篭らずに木曽川渡河してもらって 岐阜か大垣を攻撃してもらい、しかし岐阜か大垣も落ちずに持ちこたえ 西軍後詰到着兵力をもって東軍先発隊に後詰決戦を挑む。 清洲に引き籠られてもだめ、攻撃されて岐阜が落ちてもだめ。 しかし兵29000で7000が籠もる城を攻撃するのは攻撃側もけっこうリスクが高いと思う。 攻城で4倍の兵力差は微妙なラインだと思う。
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