- 戦国時代における騎馬武者の実像とは 2騎目 [無断転載禁止]©2ch.net
400 :人間七七四年[]:2017/11/15(水) 20:48:22.02 ID:h0Jn4T2w - 甲斐、越後=天下一の軍士
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛 (中略) 甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也 (奈良県興福寺『蓮成院記録』天正十年三月) 上方=弱敵の国ども 東武士は大方強敵どもなり 筑紫の奥は奥州衆により申候 上方の弓矢すえになりたる国ども、(中略)五畿内中国の町人に相似たる侍ども、(中略)弱敵の国ども 上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て 上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。 信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる 信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して 関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候 関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり、足軽上手なれば 三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。 三河国、日本六十余州にて、人のかぞゆる侍の、武篇かせぐ国なれば たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。 (『甲陽軍鑑』)
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