- 戦国ちょっと悪い話44 [無断転載禁止]©2ch.net
805 :人間七七四年[sage]:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT - (豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久・長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。 だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。 彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。 したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。 ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、 もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。 薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。 豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。 本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、 府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。 城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。 だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。 府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、 赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。 結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。 府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、 さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。 清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。
|