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603 :人間七七四年[sage]:2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx - 幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。 井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって 阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが 井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。 つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を 名乗らなかった。これには以下のような理由がある。 阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が 率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ) しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。 だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、 他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。 後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を 教えたという。 そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に 『井上半右衛門子半九郎』 と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた 「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また 家の祈祷にもなると考えています。 かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。 我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」 そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。 (武野燭談)
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