- 関ヶ原合戦の真実 Part5 [無断転載禁止]©2ch.net
708 :人間七七四年[sage]:2016/10/13(木) 06:22:25.79 ID:buT6rTuu - >>702
孤立化してる加藤家の状況をどうにかしょうと清正が方々に粉掛けていたという事実がまずあるから そこから優先度の高い立花をどこかにぶつける(その誘いの場合は龍造寺)話が出てくるのも自然ではある ただ関ヶ原の前七月中旬あたりからの加藤家の文書や黒田文書とかから辿っていくと この期間の加藤と鍋島や立花との連絡の形跡はなく、清正が提案している策、というより要望を如水に無視され続けて 筑後をどうにかして欲しいが、誰も思うとおりに動かない事で清正はいら立っていたのが見えてくる 言わなくても鍋島(龍造寺)なら筑後を攻めるという希望的観測もあったように思う この頃の黒田は事前の宣言通りに両豊の制圧へ乗りだし、鍋島(龍造寺)は軍を鳥栖に集結させているだけ 立花関連文書に見える清正の『卑怯で言う事きかない』という如水や直茂に対しての評はかなり清正の本心が出ている
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711 :人間七七四年[sage]:2016/10/13(木) 07:21:33.15 ID:buT6rTuu - 関ヶ原以前の行動から「加藤清正は家康派である」とは導けないけど
関ヶ原の決着がついたことで清正の状況は一気に好転していったので そこから「加藤清正は東軍である」と導くことができる 関ヶ原後は余裕が出て来たのか状況の楽観視が減って 清正優位が確定している関係では、外交上で自分が仲立ちするという話をよく持ち出すようになる
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713 :人間七七四年[sage]:2016/10/13(木) 08:13:13.29 ID:buT6rTuu - 関ヶ原後は清正が部下へ出す指示に「もしもの時」の備えが増える
これは精神的余裕が出てきた証拠だと思う ただ関ヶ原前の情勢が悪かった時に「さらに情勢が悪くなる」という想定をしている形跡が清正にはない これを状況の楽観視と呼んでいる
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- 島津幕府創立の可能性を検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
16 :人間七七四年[sage]:2016/10/13(木) 18:08:50.83 ID:buT6rTuu - 誤解と言ったら島津家の軍勢は取り立てて攻勢に強いわけではないし
蛮性は誇張されているし、一般的な中近世的軍隊の枠からは全然はみ出さない 攻勢が成功する時は大量の兵員を動員して、攻撃の回数を多く確保できる時間的物資的余裕がある場合 あと秀吉に為す術もなく負けたというのも誇張といえば誇張、当時の九州南部がそもそも大規模な軍事行動に耐えられるような土地ではないので 島津は遠征の半ばで既に押せば倒れるような限界状態を迎えていたし 逆に秀吉軍が九州南部へ兵を移動させたらそれだけで兵站の限界を迎えて最後の一押しが出来なくなった
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- 大阪の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか? [無断転載禁止]©2ch.net
87 :人間七七四年[sage]:2016/10/13(木) 18:21:51.85 ID:buT6rTuu - 鍛造はかなりの水準にはあるけど鋳造技術が壊滅的なんだな近世日本は
建築様式の違いで良質な煉瓦が作れない、というより災害多発環境のせいで煉瓦を使えないから 鋳造技術を支える煉瓦の建築技術を発展させる土壌がほぼ無かった この問題が解消されるのは20世紀に入ってから
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