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131 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:20:58.43 ID:N4wM4BOK - 元和5年に福島正則が改易されると、
備後には水野勝成が10万石で入封されることとなった。 備後には古くより神辺城が存在していたが、 新たな領国経営のためには北方に過ぎると思われた 幕府より新規築城の許可を得た勝成は、 西国偃武の地としてふさわしい場所を選ぶべく領国内を巡検し、 最終的には陸路・海ともに近接している常興寺山に築城することとなった。
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132 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:21:19.20 ID:N4wM4BOK - ただし、常興寺山の北には山が存在しており、そこからの砲撃には防御が脆弱であることが懸念された。
「私ならば一日で城落として御覧に入れましょう」と言う家臣に対し、 勝成はこう答えたという。 「その事を一番分かっているのはわしである。 しかし、今回の築城では幕府の威容を示し、 この勝成が西国の中心で諸大名に睨みを効かせるのが重要である。 天守の北面には鉄板を貼って防御とすればよい。」
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133 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:21:40.70 ID:N4wM4BOK - こうして築城された福山城は、幕府の援助もあり10万石としては破格の巨城となった。
そして、天守の北面は鉄板で覆われていた。 かくして、正式名称は鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)と呼称された。 縄張り図では南面に防御が分厚く、北面は守りが弱かった。 これは、勝成が幕府に遠慮してわざと北面を薄く作り、代わりに寺社を置いて防御の助けとしたため、とする説がある。 時は過ぎて戊辰戦争の際、福山城は長州藩に攻撃を受けた。 その際に城の北面からの砲撃を受けたが、天守の鉄板に弾き返されたという逸話が残っている。
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134 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:27:36.70 ID:N4wM4BOK - ちなみに福山城天守は戦前に国宝として指定を受けていたが、
惜しい太平洋戦争時の空襲で焼失してしまった。 現在の再建天守は、原型を留めない残念なものとなってしまっている。 縄張り図を見ると、南に重厚な防御を備えているのに北方は極端に弱い。 上記の幕府に遠慮した説のほかに、予算不足という説もある。 ただし、幕府も積極的に資金援助した江戸時代最後の大規模築城である事を考えると、 予算不足のみならず、技術者不足などもあったかも知れない。
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135 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:28:20.67 ID:N4wM4BOK - >>134
「惜しい」→「惜しいことに」と書きたかった。 すいません。
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137 :人間七七四年[sage]:2016/08/28(日) 22:59:17.27 ID:N4wM4BOK - 長州征伐じゃなくて戊辰戦争ね。
福山藩は歴代譜代大名が入ってて、幕末には阿部正弘が老中として活躍してる。 そのせいか幕府方とみなされて攻撃されかかってるし、実際に小規模な戦闘で死傷者も出てる。 恭順姿勢見せたから、全面対決は生じなかったけど、以降は新政府方の先鋒としてコキ使われたみたい。
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