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940 :1/2[sage]:2016/07/18(月) 03:04:46.14 ID:UAan42eF
台廟御馬、岩浪の事

 増上寺の教誉僧正〔典海〕は、予は少年の時から知っている人であり、
かの寺の住職となった後もしばしば対面していた。

 ある日の彼との会話の中で出た話である。

 元和二年、神祖が駿府で御病気が重なっていることを、江戸で台廟(秀忠)がお聞きになられた。
すぐに御出立なされ、一昼夜の間で駿府にお着きになられて御対面された。
神祖は非常に嬉しそうな顔つきをされたという。
 その時乗られた御馬は、”岩浪”という駿足のもので、昼夜をかけて馳せられたので、
駿府へ着かれると息絶えて死んだという。
台廟は憐れに思われて、これを埋められた所に馬頭観音の像をたてて、
そのしるしとなされた。
 今でもその跡があるとのことであった。

 予はその御馬を埋めた跡を訪れたいと、年頃思っていた。
増上寺の山中にあって、その所を心光院というと聞いたので、
今年品川に行ったついでにかの地を尋ねると、
この院は今は増上寺の山外、赤羽根の川辺にあった。
御馬の遺跡には一堂あって、中央に石像の観音があった。
高さは四尺を超すだろう。
守僧に問うと正観音という。いかにも古色でその頃の像であろう。
後にしばしば火災に遭ったというので、石像に石灰を塗って鼠色に見えた。

 またかの守僧の言う所では、
「この御馬は名を”布引”といって、台廟に殊に愛されていた。
大坂の御陣にもこれを召されて、台廟が薨去された時も葬儀に従い、
そのまま増上寺に繋がれていたが、御中陰満(四十九日)の日に死んだ。
よって荼毘にして山内に埋め、仏像をその所に建てた」
とのことであった。
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941 :2/2[sage]:2016/07/18(月) 03:05:08.84 ID:UAan42eF
 予は思うに、守僧の言といえども信じれないのは、
大坂冬の陣は慶長十九年で、台廟の御他界は寛永九年である。
この間十九年で、大抵の常馬の寿命を考えると、
寛永九年に十九歳とすると、冬の御陣ではその馬の産年となる。
この年に四歳としても、御他界の年には馬寿は二十二である。
たまたま長寿の馬はないわけではないが、おそらくは違うだろう。
またその寺中で死んだので、荼毘にして埋めたというのもいかがであろうか。
それならば僧正の語ったように、台廟がかの駿足を憐れみなさって、
駿州で倒れた馬を火葬にして、御帰りのときに増上寺に埋められたものであろう。
そうでなかったらすぐに駿府で埋めたのであろう。
 また御馬の名を”布引”というのも、おそらくは違うであろう。
それは今も速足の馬には、四方手に布一端をつけて乗るので、布は空を曳いて地に着かない。
これを布引の馬と称するのである。
かの御馬は千里の駿足であるが、布を引くのは言うまでもないだろう。
その名は僧正の言うように”岩浪”であるはずだ。
守僧は武事を知らないまま伝承したのだ。
 また駿府まで、一昼夜で着かれたというのも、後藤庄三郎〔光次〕が記した『政事録』にいう所では、
『二月朔日、将軍家江戸御発駕。日以て夜に継ぎ、二日御駕御駿府に着く。』
と有るので、江戸から駿府まで四十六里なので、かの駿馬の力に依らないと、
このような神速の行はできなかっただろう。
いずれにしても、かの御馬は今でも吾輩にさえ憐れみの念に堪えるものだ。

 また心光院は、初めは今の本坊の側の新道というところにあったが、
火災に度々罹ったので、ついに今のところに移されたという。
ならば初めは御馬を埋めたところは今のところではない。心光院はもとは方丈の内道場と言う所であったのであろう。
(甲子夜話)


東京タワー側の心光院、お竹如来以外にもこんないい話があったんですね


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