- 戦国ちょっといい話43 [転載禁止]©2ch.net [転載禁止]©2ch.net
941 :2/2[sage]:2016/07/18(月) 03:05:08.84 ID:UAan42eF - 予は思うに、守僧の言といえども信じれないのは、
大坂冬の陣は慶長十九年で、台廟の御他界は寛永九年である。 この間十九年で、大抵の常馬の寿命を考えると、 寛永九年に十九歳とすると、冬の御陣ではその馬の産年となる。 この年に四歳としても、御他界の年には馬寿は二十二である。 たまたま長寿の馬はないわけではないが、おそらくは違うだろう。 またその寺中で死んだので、荼毘にして埋めたというのもいかがであろうか。 それならば僧正の語ったように、台廟がかの駿足を憐れみなさって、 駿州で倒れた馬を火葬にして、御帰りのときに増上寺に埋められたものであろう。 そうでなかったらすぐに駿府で埋めたのであろう。 また御馬の名を”布引”というのも、おそらくは違うであろう。 それは今も速足の馬には、四方手に布一端をつけて乗るので、布は空を曳いて地に着かない。 これを布引の馬と称するのである。 かの御馬は千里の駿足であるが、布を引くのは言うまでもないだろう。 その名は僧正の言うように”岩浪”であるはずだ。 守僧は武事を知らないまま伝承したのだ。 また駿府まで、一昼夜で着かれたというのも、後藤庄三郎〔光次〕が記した『政事録』にいう所では、 『二月朔日、将軍家江戸御発駕。日以て夜に継ぎ、二日御駕御駿府に着く。』 と有るので、江戸から駿府まで四十六里なので、かの駿馬の力に依らないと、 このような神速の行はできなかっただろう。 いずれにしても、かの御馬は今でも吾輩にさえ憐れみの念に堪えるものだ。 また心光院は、初めは今の本坊の側の新道というところにあったが、 火災に度々罹ったので、ついに今のところに移されたという。 ならば初めは御馬を埋めたところは今のところではない。心光院はもとは方丈の内道場と言う所であったのであろう。 (甲子夜話) 東京タワー側の心光院、お竹如来以外にもこんないい話があったんですね
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