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人間七七四年
戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©2ch.net
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戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©2ch.net
669 :人間七七四年[sage]:2016/06/01(水) 20:39:16.43 ID:1B50yWuf
天正3年の正月、日向伊東家では元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、国中無事にして
上下は喜悦している所に、贈於郡において大した理由もなく一つの騒動が起きた。
その元はこのような事であった

伊東右衛門佐(伊東加賀守祐安の弟)には二人の男子があった。嫡男は三河守といい、次男は金法師といった。
三河守は那珂郡の平等寺で教育を受けた。
金法師は伊東加賀守の嫡子・源四郎の養子となり、加賀守の名跡となった。
養父である源四郎は贈於郡の一乗院で教育を受けたので、金法師もここで教育されるべきだとされたが、
一方で金法師が三河守の弟なのだから、同じく平等寺で教育を受けるべきだとの意見も出て、贈於郡と那珂郡の
間で論争となった。

このような中、贈於郡の年少の者達36人が互いに連判し、那珂郡の者達と対決しその為には一命も投げ打つと
したが、このような行為を主君である伊東義祐が悪んだため、彼らは見の置き所がなくなり財部の落合を頼って
落ちていった。

彼らの首魁は落合丹後守、その他湯地又四郎、稲津又次郎、野辺孫次郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、
中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、八代新十郎、福永新七郎などをはじめとした36人であった。

しかしこの財部においてある夜、野辺孫次郎が小山田掃部に向かって
「我々がこんな事になったのは、全く落合丹後のせいだ!」
そう終夜にわたって語った。
この時落合丹後は黙って聞いていたが、遂に激怒し
「さてこそ、互いに恨まず一味同心と連判したのではないか!それを今窮迫したからと私一人を恨む事こそ
遺恨である!」
と、そのまま二人を討ち果たした。
この時杉尾甚兵衛も丹後に味方して戦い、手傷を負ったそうだ。

そして丹後は
「我ら流浪の身となっても、伊東家に帰参するつもりでいた。だがこのような事になってはもはや
生命助かる身ではない。ならば佐土原に駆け入って恨みの一刀をなそう!」

そう考え仲間とともに、伊東家の首府である佐土原へと向かった。
この事は早くも佐土原に聞こえ、丹波が来ると騒動に成り、武士たちは一斉に彼らと馳せ合わせ
戦った。落合丹後は大勢を負傷させ自分も数ヶ所傷を蒙り、島原右近と組み打ちに及び、
右近が組み伏せられ既に危うく見える時、杉田宗伴が馳せ来て丹後を刺殺した、
こうして徒党の乱は鎮まった。

この時の狂歌に
『金法を 一乗院と法印と くらびあまして田坪へおする』
とあった。

(日向纂記)
関ヶ原合戦の真実 Part3 [無断転載禁止]©2ch.net
28 :人間七七四年[sage]:2016/06/01(水) 22:17:38.80 ID:1B50yWuf
そもそも「文治派」「武功派」とか「集権派」「分権派」みたいなくくりが全部間違い


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