- 戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©2ch.net
658 :1/2[sage]:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz - 大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼が 大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、 秀頼に書状を送った 『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。 であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。 その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。 七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。 承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは 信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』 この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、 この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。 秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ 誰も言葉を発せようとしなかった。 が、ここで長宗我部盛親が進み出た 「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。 去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が 言っていたのは、つまりこの事であったのです。 あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。 今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。 しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。 そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると 成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。 その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。 であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや 自滅より他ありません、 万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。 秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、 この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか? 不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして 武名を千歳に残すことこそ願うべきです。 ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。 去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。 これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。 同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。 ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。 ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば 左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。 木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。 伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。 かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」 この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」 そう異口同音に言い合った。
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