- 【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】 [転載禁止]©2ch.net
346 :人間七七四年[sage]:2016/04/08(金) 15:58:54.79 ID:wX2tR8C9 - そもそも開戦のきっかけはその方広寺鐘銘事件ではない。秀頼による片桐且元への攻撃。
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- 関ヶ原合戦の真実 Part2 [無断転載禁止]©2ch.net
578 :人間七七四年[sage]:2016/04/08(金) 18:19:47.16 ID:wX2tR8C9 - 関ヶ原までの先頭を網羅した言い方を臨むなら。関ヶ原戦役とでも呼ぶといい
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- 戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©2ch.net
510 :人間七七四年[sage]:2016/04/08(金) 21:46:41.33 ID:wX2tR8C9 - 天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。 真田昌幸は徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。 そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し 御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、 我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。 ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。 遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、 その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を 起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を 受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。 このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。 禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、 矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに 調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると 『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり 感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。 天正十年四月三日 昌幸 別府若狭殿 加澤与七郎殿 』 このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば 打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。 (加沢記)
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