- 戦国の武士って普段何やってんの? [転載禁止]©2ch.net
41 :人間七七四年[sage]:2016/04/05(火) 11:39:36.69 ID:OD6R1q59 - >>39
兵農分離なんてまだ信じてるのか
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557 :人間七七四年[sage]:2016/04/05(火) 11:40:42.57 ID:OD6R1q59 - ちょっ関ヶ原関連の古文書読めば青野ヶ原なんてなんぼでも出てくるのに、今更感強いなあ
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558 :人間七七四年[sage]:2016/04/05(火) 11:42:12.93 ID:OD6R1q59 - むしろこの近衛前久書状のポイントは、毛利輝元が領地半減を受け入れた上で大阪城を退去した、って部分だろ
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492 :人間七七四年[sage]:2016/04/05(火) 23:06:15.09 ID:OD6R1q59 - 関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康は
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。 この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、 御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。 4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。 この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。 これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、 江戸と駿府とに相詰めた。 このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。 殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を 伝えるだけであった。 大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の 猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。 なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること なかった。 豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り 豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。 (慶元記) 豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である
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