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人間七七四年
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278 :人間七七四年[sage]:2016/02/07(日) 20:13:18.35 ID:njF5l6gN
彼の長宗我部兵部丞文兼の先祖を委しく尋ねれば
秦の始皇帝四世の孫、功満王が仲哀天皇八年に来朝し
その男子は融通王または弓月王とも号した。
応神天皇十四年に来朝、その男子真徳王
仁徳天皇の御宇に姓を賜り、波多と言う。今の秦の字の訓である。
真徳王9代の孫、秦の川勝に至った。
用明天皇二年七月、厩戸の王子、守屋の大連(豪族)を討伐の際
川勝大きに軍功あり。川勝二十五世の孫、秦能俊、土佐長岡郡にて
三千貫を領し、宗我部村岡豊山に城を築きて入城し、氏を宗我部と改めた。
しかしながら、同国香美郡にも宗我部という所があり
領主も宗我部なにがしと号していたので紛らわしいという事で
「長」岡郡にあるを長宗我部と称し
「香」美郡にあるを香宗我部と称することにした。

(土佐物語)
土佐物語冒頭より。
何となく異国の神話やおとぎ話を連想させるような
長宗我部姓の成立についての逸話です。


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