- 本能寺の変の真実 [転載禁止]©2ch.net
216 :人間七七四年[sage]:2015/10/09(金) 13:37:49.39 ID:8KiCbDz7 - >>211
光秀の最初の名前は、明智十兵衛だったな。 10番目の子供で親からは大事にされなかったのかもしれない。父親の名前もわからない。 ともあれ、十兵衛というか光秀は流浪して、石ころ同然の身分だったが、足利義昭が将軍に就任して からは、急速に出世する。無職でブラブラ?していたときとは違って、一気に重役クラス。 足利義昭が将軍に就任したのは、信長の上洛時だから、永禄11年(1568年)。 信長公記は、15冊にまとめられていて、1年1冊の形式になっているから、本能寺の変は ざっと15年後。 光秀の長男は14歳である。 愛宕百員で 「国々は猶のどかなるとき」と、「とき」で締めくくったはずだが、 ネットでみると「国々は猶のどかなるころ」になっている。どうしたわけか??。 ともあれ、光秀の長男である光慶は、幼名を「十五郎」というので、育った男児はそれまで 死に続けて光秀が老いてからようやく育った子、だったのかもしれない。妻を取り替えたか?。 wikiで確認すると、光秀の長男である光慶は、生年が不詳となっている。 が、ガラシャはなぜかはっきりしている。永禄6年(1563年)次女として生まれる。上洛5年前であり、 生まれたとき光秀が30歳とすると、本能寺の変まで20年。光秀はそのとき50歳となり、 信長とほぼ同年齢となる。なんだかわけわからなくなってきた。
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