- 信長はすごい←いい加減に一次史料で具体的に(怒 [転載禁止]©2ch.net
158 :人間七七四年[]:2015/10/05(月) 10:16:49.00 ID:2URfDnxS - 小規模の興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して 多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。 悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、 他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。 そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw 元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。 一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において 無礼にも流通拒否され有り余る腐れ悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。 このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による大規模一揆の隆盛。 東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。 東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。 この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。 豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや 景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。 とくに天正大判を発行するなど信玄の政策を継承した金融政策である 秀吉の金本位体制は西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。 信長が永禄12年に撰銭令の猿真似をやって 見事に経済破綻させてしまった。 このため貫高制まで崩壊してしまい、 この後、信長は内政や経済政策を一切やらなくなり、 領地支配の深化を放棄したために軍政改革すらできず織田軍は現地略奪型補給により軍を養う旧態の軍隊だった。 だから一揆や謀反、反乱だらけで信長は一生を終えた。 支配は家臣に一職支配という独裁権力を与えて内政丸投げをやったために 家臣が国人と信長を通さずに主従関係を結び軍閥化してしまった。 だから家臣の光秀が信長を殺したり、 織田家を無視して織田領の切り分けを勝手にやれた。
|