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215 :人間七七四年[sage]:2015/08/26(水) 03:07:40.90 ID:/MvixQL9 - 立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、常に分かれていた。
小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。 彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、 普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、 そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。 立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、田舎侍には稀なる人材であると、 同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。 今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、とりわけこの者ははややかであった。 武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。 しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、 今の世の習いである。そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、大抵は愚鈍で 子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。これは珍しいことではないが、 立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、利根であることに押され、武儀は二番のように、 家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。 このようであったので、小野和泉派の者達は、何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、 立花三河派の者達に対してが、それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。 そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、 小野和泉派は相手を「比丘尼組」、立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、 それぞれに腹を立てさせることもあったという。 (古郷物語) 立花宗茂の家中が2つの派閥に分かれていた、というお話。
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